違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

天上天下唯我独尊!

一般的に、人が人を認識する場合は顔が手がかりの中心になるはず。

 

顔というよりも、髪型や体型もセットとしての外見と言ったほうが相応しいかもしれない。

 

最近では、人を認識認証するためのシステムも充実し、その方法も多岐にわたっている。

 

自分の意思で変えることが出来ないとされる顔や指紋やDNAを認証の手がかりにすることは一般的に広く知られているし、その他に意思で簡単に変えられそうだが実は簡単には変えられないとされるものに歩き方や筆跡があることも広く知られている。

 

これらの特徴は占いなどでも手がかりにされるという意味では、その歴史は長いと言えるだろう。

 

ある程度以上の年齢になれば、認証、認識という意味では、人間というのはそうそう簡単には変わらないということは誰もが感じていることだろう。

 

しかし、視点を変えて、人間を構成する細胞レベルに目を向けると、新陳代謝という不思議な現象がある。

 

 

 

  • 胃腸の細胞は約5日周期
  • 心臓は約22日周期
  • 肌の細胞は約28日周期
  • 筋肉や肝臓などは約2ヶ月間の周期
  • 骨の細胞は約3ヶ月周期

 

細胞の新陳代謝が正常であれば身体は3ヶ月で新しく生まれ変わる。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/新陳代謝

 

 

 

 

舌の味を感じる細胞である味蕾の新陳代謝には約10日かかると言われてる。

 

つまり、10日で舌は別物になるのだ。

 

ダイエットや健康のために薄味にしたり塩分を減らすということは10日我慢すればその味に慣れて受け入れられるのだ。

 

 

認証というレベルでは人間は変わらないと位置付けられるが、新陳代謝レベルでは日々変わっている。

 

一般的に老化や加齢のせいとされることの多くは、新陳代謝のプロセスの中で起きていて、しかも新陳代謝の再現レベルの低下とあいまっているのだろうと思うと納得できる。

 

 

寿命の限界点として心拍数の累計総数(哺乳類では20億回)を上げる説もあるが、新陳代謝や細胞分裂には限界点があるとする説もある。

 

その限界に達することが寿命で、だとすると極めて個人差が大きいはずだ。

 

長寿の人には痩せ型が多いのは、細胞分裂(≒新陳代謝)で消耗する度合いが小さいからだと考えられている。

 

同じ理屈で、ハードなトレーニングを行い肉体改造に余念がないアスリートは、活発な細胞分裂で筋肉を刺激し、それに見合った食事をすることで活発な新陳代謝が起こるが、それが寿命の限界点へ近づけることにもなっている、かもしれないのだ。

 

 

だからだろうか、若い頃の顔つきや体つきの印象と寿命の関係は一致しづらいようにも感じられる。

 

 

顔や体は一人一人違っているのは当たり前なのに、なぜか生き方は他の人と似たようなことを望み、その成否をめぐって一喜一憂する。

 

 

さらに、自分の望む自分になるとは自分を超えることだとすると、認証の世界ではあり得ないのだ。

 

 

新年の始まりに『昨年までの自分を超える』と掲げることはわかりやすいようでわかりにくいのは、本音や真意のすり替えを行なっているからだろう。

 

 

そんなことで悩んだり葛藤することは勿体無いような気がする。

 

 

 

新陳代謝で日々新しくなってるようで、いつの頃からか老化という劣化バージョンで生まれ変わっているのが大人という人種だ。

 

自分は自分で、それより上でも下でもない。

 

そう思ったら思い出されたのがこのことば。

 

 

天上天下唯我独尊。

 

 

いろいろな解釈があり、良い意味で使われないケースもあるようだが、他と比べて上だ下だと一喜一憂せずに自分は自分だという唯一無二だと思えれば、心が穏やかになれそうな気がする。

コロナと株価バブルの複合

来るぞ来るぞといわれてる次の大地震が起こる前に、なんの前触れもなく出現したコロナに大揺れだった2020年。

 

来るぞ来るぞといわれてるものは大地震以外にもある。

 

それはバブル崩壊だ。

 

ここでいうバブルは、株価バブルだ。

 

 

歴史を振り返ると、感染症とバブル崩壊には共通点があるという指摘がある。

 

 

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https://president.jp/articles/-/41367?page=4

 

 

 

 

ここで取り上げてるバブルは、90年代前半の日本のバブル景気のようなローカルバブルではなく、世界的なバブル。

 

このバブルの崩壊には法則性が当てはまると指摘したのが、ノーベル経済学賞を受賞したロバート・シラー教授で、考案した指標がシラーPER(株価収益率)という株価の割高感を示す指標、この指標が25倍を一定期間超え続けると、その後にバブルの崩壊が起きるというのが、これまでの経験則だとされている。

 

 

ちなみに、ITバブルの時はシラーPER25倍超えが79か月、リーマンショックの時は52か月連続した後で暴落がやってきている。

 

2020年3月にアメリカでも日本でも株価が暴落してバブルが崩壊したと騒がれたが、一過性のもので終わり、すでにご存知のようにアメリカでも日本でも空前の上昇を続けている。

 

もはや、アメリカでも日本でも株価の推移が実体経済を反映してないことは誰の目にも明らかなのだが。

 

つまり、株価は常識とは全く違う理屈で動いているし、理屈というよりもごく少数の人の意思で動かされてるものになっていると言った方が良いだろう。

 

シラーPER25倍超えはすでに80ヶ月になる。

 

 

大地震がいずれ起きることには誰も疑問は持っていないだろう。

 

問題はいつ起きるかだが、人間の経験則と地球の気まぐれの時間の尺度の違いが大き過ぎるので予測がつかないのだ。

 

地球に大地ができて45億年。

 

たかだか1000年単位の経験則しか持ってない人間が追いつかないのは当然な気もする。

 

それに比べるとバブルの崩壊に関しては、もう少し予測精度が上がってもいいような気がする、所詮人間がやることなのだから。

 

2020年3月の株価暴落にコロナが関係していたことは明らかだが、それを乗り越えた今、暴落を意識して萎縮することはただの臆病にも感じられる。

 

 

コロナと株価バブルに共通点があるとしたら、今だったらワクチンだろうか。

 

ワクチンが機能すればコロナはもはや恐れる存在ではなくなる。

 

その期待が株価も支えているはずだ。

 

ワクチンの効果次第では、あるいは重大な副作用が明らかになれば、プツンと張り詰めていた糸が切れるような気がしている。

 

つまり引際が大事になる、傷を負う前に引くか、ギリギリまで儲けを追うか?

 

こうやって書きながら、多分しばらく株価は上昇するんだろうなと思える。

 

株をやってる方は、引際に関して複数のプランを準備した方が良いだろう。

ズームで撮ったお正月の風景

箱根駅伝の復路で最終10区へのシード権争いの学校のたすきリレーまで見たところで山登りに出かけた。

 

途中に一周1kmのウオーキングコースがある池のそばを通ったが誰一人いなかった。

 

山裾にある公園では凧上げを楽しむ親子の姿が多かった。

 

離れたところからズームで撮った写真。

 

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最近は凧上げをできる場所って簡単には見つからない気もする。

 

 

山登りしてる人は少しはいるのだが、思っていたよりも少なかった。

 

 

山の中腹にある展望台。

 

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ここから下界の写真をズームしながら撮ったもの。

 

手ブレと格闘してるのでちゃんと撮れてるかは後で確認しないとよく分からない。

 

 

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4枚目の写真に船が見えたのでそれを追いかけてみた。

 

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大雑把に直線距離で10km位だろうか。

 

最近少々ズームに飽き気味だったけど、ポケットサイズのコンデジでこの芸当が出来ることのありがたさを再確認できたような気がする。

 

来た道を逆に戻ったら、行きには誰もいなかった池のウオーキングコースでは多くの人がウオーキングやランニングをしていた。

 

きっと箱根駅伝に触発されたのだろうなと思えた。

 

 

初詣にはあまり正月を感じなかったのに、今日は正月を感じられたのが印象的だった。

 

 

ズームには捨てがたい魅力があると再認識できたお正月になった!

 

高級という低級!?

正月を迎えて気分一新できる人とできない人がいるのはコロナのせいばかりではないだろう。

 

特に、未解決の問題を抱えている人は。

 

わたしの中ではもう過去の話題になっていた事件がニュースで流れてきた。

 

「騙すのが悪いのは間違いないが、騙される側も問題あり!」高級カーシェア投資トラブルの現場で考える

駐車場で目に付いたのは10~15年落ち、市場では100万円台から300万円くらいで流通しているクルマ。投資者達は相場よりもはるかに高い金額で高級車を購入させられていた=法外な高額ローンを組まされていたという。

 

 

この話のトリックや錯覚の肝は、儲かるということよりも、車という現物があることと、自分の財布から直接支払うわけではないということが、万が一の場合のリスクヘッジになってると思い込むことかなと感じられる。

 

さらに、自身が興味もないしよく知りもしない分野に手を出すという相場感覚の欠如も追い討ちをかけているのは、隣の芝生が青く見えたからかもしれない。

 

 

 

 

正月恒例の人気番組の格付けチェックを思い出す。

 

この番組がおもしろいのは、『高級』が大したことないということを教えてくれることなのだが、アンテナの感度が鈍ってる人が見ると、目利き力が高いGACKT氏が輝いて見えることだ。

 

 

 

なぜ騙されるのか?

 

目利き力の無さに加えて、ちょっと前の不動産のサブリースやシェアハウスも同様なのだが、錯覚に実体を与える役目を果たす裏方が金融機関だということも関係してそうだ。

 

ローンが組めるということは、金融機関が事業としてお墨付きを与えていると勘違いするのかもしれない。

 

 

 

 

Twitterで『高級』と検索すると、

 

Twitterで高級と検索すると

 

 

と、出た。

 

この程度だったら大きな社会問題にはならなそうに見えるところが落とし穴なのかもしれない。

 

高級になぜ惹かれるのか?

 

世の中に劣悪な低級が多いならば高級の位置付けは違ってくるが、現代は詐欺でも絡まない限り低級はほとんど存在しない。

 

現代の目利き力とは、低級を見抜く際に発揮される能力として機能するのだ。

 

念のためにとGoogleTrendsで『高級』と検索すると、

 

 

Google Trends『高級』2004年以降

 

 

Googleがデータを開示して以降の時代は、緩やかだがコンスタントに高級の需要が増していることが感じられる。

 

高級と銘打てば需要が作れるという背景がありそうだ。

 

今年もどこかで高級と銘打たれた低級に騙される人が後を絶たないような気がする。

 

ご注意あれ!

紅白歌合戦やサザエさんが象徴する高齢化に抗いたければ誰も知らないステージを見つけるしかない!

種を蒔いてから芽が出るまでの時間が長いと、蒔いた種はダメだったんだと思ってしまう。

 

一方、芽はすぐに出るし見た目の成長も順調だが実をつけない場合も、種がダメだったんだなと思ってしまう。

 

家庭菜園あるあるで、『やっぱり安い種はダメなのかな』と思ったり、『蒔く時期やタイミングの問題かな』と考えたりもするのは、一種の学習なのかなと感じる。

 

どんなに考えても種の気持ちは分からないが、ウンチクは集めようとする。

 

 

そんな時、種はいったい何を思っているのだろうか?

 

人間だって種のようなものなのだ、というか生まれただけではまだ種なのだ。

 

寿命が伸びることを一般に高齢化と呼ぶが、人として芽が出るタイミングも高齢化しているし、場合によっては芽が出ないまま人生を終えたなと思われる人も多いはずだ。(思いっきり自分のことを棚に上げてるが)

 

 

 

 

現代が高齢化してるということはサザエさんも教えてくれる。

 

 

 

 

サザエさんよりも紅白歌合戦の方が分かりやすいのかもしれない。(紅白見なかったけど)

 

 

 

 

従来の年齢枠に照らし合わせると年齢不詳が増えるのも当然なのだ。

 

寿命が伸びるということは、芽が出る時期がずれたとしてもなんの不思議もないし、実だって変化して当然だ。

 

高齢化してる現代だが、それに抵抗するように若く見えることに夢中な人がどんどん増えている。

 

若く見えるということは、種が成長を拒否するようなものであり、実をつけることを拒否することのようにも感じられる。

 

こう書きながら思い出すのが近藤サトさんだ。

 

近藤サト「40代からグレイヘアに! 白髪染めもお化粧もやめました」 過去にしがみつかず、潔く何かを手放そう 

私の場合、白髪が出始めるのが早く、20代後半から悩まされていました。そのためフジテレビのアナウンサーをしていた頃から、白髪染めが欠かせなくて──。

 

(中略)

 

2011年の東日本大震災の後、災害時用グッズを揃えた際に、白髪染めもその中に入れたのですが、非常時に髪を染めるってどうなんだろう、無駄な行為ではないかと、ふと疑問に思ったのです。

 

(中略)

 

一般企業で働いている友人いわく、「グレイヘアは絶対無理」。取引先の人と会う時は、「若々しく見えたほうが得」なんだそうです。

 

(中略)

 

今の私は、「歳をとって何が悪いの?」「シミができて何が悪いの?」と思っています。「20歳や25歳の時の自分は、確かに肌はつるつるだったかもしれないけれど、中身は空っぽだったじゃないの」。そう自分に言いたいですね。

 

 

 

この話のおもしろいところは、人間が成長して実をつけたと思っていることの多くが、ただの煩悩だと教えてくれることだ。

 

 

高齢化に関してMー1の話を引用したが、今年のMー1では『あれは漫才なのか?』と話題になっていた。

 

マヂカルラブリー M1優勝も無言ボケに“漫才じゃない”と論争 2020/12/21(月)

従来の喋りを中心とした掛け合うスタイルの漫才ではなく、ほぼ喋ることなくジェスチャー中心のボケで優勝を掴んだマヂカルラブリー。しかし斬新すぎる内容だっただけに、SNSでは“マヂカルラブリーのネタが漫才かどうか”についての論争が起こっている。

 

 

ところてんが押し出されるように、誰しもが高齢化は避けられないのだが、それに抗おうとするのは不自然なことで、その抗いの限界はすぐに訪れるのだと見えてくる。

 

芸能人などテレビに出ている人たちがYouTubeに進出するのも、高齢化で上が糞づまっているからだと考えると、もし高齢化に抗いたいゆえと思うならば、伝統など前例や先例が多い分野から外れたものを探す必要がある。

 

 

ただ、テレビに対するYouTubeですらすでに伝統的な存在になりつつある。

 

 

さて、新しいステージをどうやって見つけようか!

新年の始まりに2020年を振り返った話

新年明けましておめでとうございます。

 

年の初めだからこそ2020年を振り返りたいと思います。

 

今日語りたいことは、コロナのせいで起きたことのようでもあるし、コロナが起きなかったとしても遅かれ早かれそうなっていたのかもという話です。

 

多くの人や企業が苦しい思いをする中で、生まれたヒットもありましたが、マスクや消毒液が売れたことをヒットとは誰も思ってないでしょう。

 

そんな2020年に起きたヒットとしての鬼滅の刃には、異論を挟む人は誰もいないでしょう。

 

映画やコミックだけでなく関連商品やコラボ商品が多数出て、コロナ不況の中で少しでもあやかりたい、人気に乗っかりたいと望む企業が多かったというのも自然な流れだったのでしょう。

 

しかし、この鬼滅の刃の大ヒットは実はある変化を象徴的に示しているのです。

 

〜〜〜

 

コロナのせいで旅行観光業がダメージを受け、連鎖的に宿泊や飲食の事業者が最初にダメージを受けたが、そういう業界と取引がある企業も少しの時間差の後でダメージは避けられない状態になる。

 

そして、広い意味での一般的なイベント全般が成り立たなくなってしまった。

 

それに加えて、東京オリンピックのために積極的に投資をしていた企業はその回収を図るはずだったのに、下手をすると投資は全額負債化するリスクを抱えることになってしまった。

 

イベントが回らなくなると、広告宣伝及びマスコミ事業も大きなダメージを受けることになる。

 

良くも悪くもその仕切りが注目を浴びる広告代理店も活躍の場が無くなったのだ。

 

 

そのような2020年に鬼滅の刃は大ヒットしたのだ。

 

 

 

 

日本の歴代映画興行収入のトップになった鬼滅の刃だが、この話題ただボーッと聞いてると『あーやっぱりアニメは強いな』としか思わないかもしれないが、2位の千と千尋の神隠しとの間には大きな違いがあるのだ。

 

そして、今にして思うと2017年のヒット映画カメラを止めるなとも共通した時代の変化が見えてくるのだ。

 

私たち一般人は、ヒットのプロセスの違いから気付くしかないのだが、まずは広告宣伝がどのように展開していたかの違いだ。

 

千と千尋は膨大な広告宣伝費をかけていたのに対し、鬼滅の刃もカメラを止めるなも広告宣伝はほとんど行われず、口コミや草の根活動の結果ヒットの兆しが出たことで旬の話題として報道で取り上げられることで一気に認知が進んだのだ。

 

映画を見ているといつの頃からか日本映画の場合、エンディングのクレジットの中に『(映画のタイトル)製作委員会』とあるのに気付くようになった。

 

どうでもいいけど妙に気になる不思議なネーミングだと思っていたが、それ以降どの日本映画を見ても出てくるので自然と無視するようになっていた。

 

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/製作委員会方式

製作委員会方式(せいさくいいんかいほうしき)とは、アニメ・映画・テレビ番組などの映像作品や、演劇ミュージカルなどの舞台作品を作るための資金調達の際に、単独出資ではなく、複数の企業に出資してもらう方式のこと。

複数企業に出資してもらった場合の出資企業の集合体を「製作委員会」と呼ぶ。

建設業等における共同企業体(JV)と同様の形態(パートナーシップ)に相当する。

 

 

 

Wikipediaによると1980年代には使われていたようだが、これは映画が娯楽産業から投資事業に変化していたことを示していたのだ。

 

娯楽産業だった時の映画は観客を意識した作られ方をしていたが、投資事業化すると投資家や出資者を儲けさせることが目的になる。

 

イソップ童話の北風と太陽のようでもある。

 

娯楽産業だった時には観客を温める太陽を目指しただろうが、投資事業になって出資者のことを第一に考えるようになると観客は北風を感じるようになっていたのではないだろうか。

 

しかし、いつも北風が吹くことが当たり前になると北風に違和感を感じなくなるが、たまに太陽を感じると、やっぱり太陽の方が良いと感じる人は多いはずだ。

 

広告宣伝に頼らずに、草の根の口コミでヒットした鬼滅の刃やカメラを止めるなは、製作委員会方式で作られた映画ではない。

 

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※どちらもWikipediaから引用

 

 

鬼滅の刃では、製作の主体はアニメスタジオのユーフォーテーブル

 

どんな思いで映画を作っていたかというと、

 

 

アニプレックス代表取締役執行役員社長である岩上敦宏の「表記された会社が全ての責任を持つということを視聴者に伝え、自分たちもある種の覚悟を持って作品作りに挑む」という考え方をリスペクトしたものであり、アニプレックス以外のメーカーと組む際にも同じ表記を利用している。

 

 

つまり、お金を出すから儲けさせろと要求するだけの企業や投資家とは組まないのだ。

 

 

権利関係がシンプルなために利害の対立も少ないことが、関連商品やコラボ商品が一気に増えた背景にはあったのだ。

 

このような思いで製作されたことだけでは不十分で、最も大事なことは、そんなスタイルに観客や市場がついて来たことだ。

 

 

 

つい先日の2020年12月上旬に養老孟司さんがこんなことを言ってる記事が出ていた。

 

コロナのせいとかではなく、確実に時代も人も変わっているようだ。

 

 

養老孟司氏が語る「今こそ青臭いことを考えよう」

(ベランダの愛猫に目をやりながら)一番参考になるのはあれですよ。いいでしょう。何も気にしていませんもん。嫌いなことは一切やらないし。腹がすいたら、食い物をよこせという。これでいいんですよ、生きるというのは。

 

 

 

養老孟司さんの愛猫まるは、自分の果たすべき役割を果たしたと感じたのかもしれない。

 

 

 

養老孟司さんの愛猫まるが死ぬ NHKの番組などで人気 2020/12/22(火)

 

 

 

 

さあ、2021年がどうなるかはあなた次第だ!

 

 

二種類の『マニュアル』!

決められたことに従うだけで、一切の融通を利かせないような反応をする人をマニュアル人間などと呼ぶことがある。

 

本来のマニュアルには手引書という意味があるが、マニュアル人間と呼ぶ場合のマニュアルは手引書の意味が強い。

 

しかし、前置きなしで使われるマニュアルという表現には、自動やオートの反対の意味としての手動の意味もあり、そこには融通性など様々な柔軟性が介入するという意味で、同じワードでありながら真逆の意味を持っている不思議なことばだ。

 

同じワードでありながら複数の異なる意味を持つものは多いが、そういうものの一つにあげられるのがshooting。

 

射撃も写真撮影も英語で書くとshooting。

 

共通点は狙って押すという行為であり動作。

 

高倍率のズームレンズで撮影する場合に発生する壮大な手ブレを経験すると、小さな標的を狙う射撃というのは超高倍率のズームレンズを使いこなすのと共通してそうだ。

 

高倍率のズームで撮影する場合、三脚にカメラを据えていてもシャッターを押すその小さな動きですら手ブレが発生する。

 

ライフルを固定して遠くの標的を狙うような場合、引き金を引く動作以外に、自分の心臓の動きである脈の変化でもブレが発生するらしい。

 

このようなことを考えていたら、マニュアルとshootingのつながりが見えてきたという話を書いてみたい。

 

究極的には、人間の動作につきまとう不安定さと融通性は紙一重で、不安定さがプラスに出る場合に熟練の技とか高度なテクニックと呼ばれてるのかもしれない。

 

そして、マイナスの不安定さを解消するためにオートマチックという仕組みやシステムが生まれたのではないかと思えてきたのだ。

 

自動車のオートマチックが頭に浮かぶ。

 

自動車の場合、オートマチックの普及が一気に進んだのは記憶を頼りにすると80年代の後半頃になる。

 

その頃のオートマチックに対するイメージは、運転することに興味がないか下手な人が使うものだった。

 

明らかに走行性能や動力性能が劣っていたからだ。

 

逆にいうと、万人向きになったとも言える。

 

自動車の基本操作は大きく3つある。

 

  • アクセルやブレーキの操作
  • 安全確認してのハンドル操作
  • 走行状態に応じてのギアチェンジ

 

3つ目にあげたギアチェンジがマニュアル操作の場合、運転を楽しめない人にとってはギアチェンジというのはとてもストレスがかかるらしく、それゆえに運転したくないと思うらしい。

 

さらに、ギアチェンジの前に判断が必要になる『走行状態に応じて』というのも、運転を楽しむ気がない人にはストレスになるようだ。

 

日本では車の98%がオートマチックだと言われているが、運転に興味がない人が多いというだけではなく、技術の進歩でマニュアルに劣るのがオートマチックという位置付けが逆転したからでもある。

 

 

同じことは、アナログからデジタルへ移ったカメラにも当てはまる。

 

デジタルカメラ(スマホを含む)しか使ったことがない人にとっては当たり前のものにオートフォーカスがある。

 

撮りたい被写体に焦点を合わせるのは現代ではカメラが担う役割となっていて、そのフォーカス性能が優秀なものほど価格が高い傾向にあるが、昔はフォーカスは人が合わせるものだった。

 

オートマチックやマニュアルという対比で捉えられていないようなことでも、似たようなことが多数ありそうだ。

 

分からなことを調べる場合、昔だったら紙の辞書や辞典や参考書を調べていたが、現在は検索でたどり着けるし、それがWikipediaであればまさに知識の金太郎飴といえそうで、便利であるとともにおもしろみが減るような気もするが、内容がびっしりと書き込まれたWikipediaを見て、全部に目を通してる人と部分を摘んでる人では差が付くはずで決して金太郎飴にはならない。

 

この差は、優劣のような種類の差ではなく、個性の幅のような差になりそうな気がする。

 

検索してWikipediaを開くところまではオートマチックの一種と言えそうだが、開いたWikipediaをどう読み込むかは極めて手動のマニュアル的な行為になる。

 

 

オートマチックは、便利だが没個性と紙一重な気がするが、そこにマニュアルという隠し味が加わると、深みが増す気がする。

 

 

いつの頃からか、予定調和というのが現代のキーワードになってるが、これっていろんなことがオートマチックになったからかもしれない。

 

優劣や効率と相性が良いのがオートマチックかもしれないが、人間が主人公の場合、それだけでは物足りないことが多いのだ。

 

オートマチックに対するマニュアルには、より大きな楽しい気持ちいいがありそうな気がする、優劣や効率という尺度では測れないのだ。

 

 

生きていて、仕事だろうと遊びだろうと、物足りなさを感じる場合、マニュアル操作な何かの要素に目を向けると思わぬ気付きが得られるかもしれない。