違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

ゴシップや詐欺やフェイクは永遠に不滅?!

インスタグラムをやっている10代の70%が自分の容姿に自信が持てなくなると答え、世界で20億人がやってるFacebookの場合は約3分の1の人が知人の投稿に嫉妬を感じてるという、スマホ依存と呼ばれる症状のほとんどの原因はSNSで、もちろん原始的な電話やメールも広義のSNSになる。

 

利用してる人の多くが、喜んで使ってると思われているはずなのにだ。

 

 

このことを知って思い出したことがある。

 

携帯電話(スマホ以前)の普及し始めの頃のことを。

 

出先や外出先で連絡を取る必要がある場合は、公衆電話を使うしかなかった。

 

この場合の必要とは、当事者にとっては緊急性が高いことで、早く伝えたい、早く聞いてほしい何かがあった場合で、もちろんただ声が聞きたいという場合も含む。

 

この当時は、かける側の電話の近くが現場だったのだ。

 

携帯電話の初期にはポケットベルもあったが、これは携帯電話に含めて考えたい。

 

携帯電話は贅沢品だったが、料金が下がり始めた96年頃から社員に持たせることが増え始めて普及し始めた、と記憶している。

 

私を含めて当時の周りにいた同僚や知人の多くは、会社の指示で自腹で仕事用に携帯を契約させられていた。

 

この当時のことをはっきり覚えてる。

 

便利になるという思いは全くなく、どこまで追いかけて来るんだという管理される不快感しかなかった。

 

携帯電話の登場は、電話を待つしかなかった受ける側を大きく変えたのだ。

 

現場で起きてる途中経過や結果を素早く知ることができるようになったのだ。

 

良い話や吉報よりも、そうでないものの方が情報として増えたように感じられた。

 

情報の共有は素早くできるようになっても、現場で起きてる問題が素早く解決するわけではなく、問題解決に向けては結局対面での確認や話し合いが必要なので、コミュニケーションのすれ違いというストレスを増やしただけのようにも感じられる。

 

初期の頃に救いとなったのは、電波が通じないエリアが都市部でもかなりあったので、電源をわざと切っていても『電波が届かなかったんじゃないですか』という言い訳が通用していたが、こんな時期は長続きしなかった。

 

 

携帯電話の普及期は、仕事やプライベートの自分に関することがいつでもどこでも相互連絡が可能になったことでストレスが増大していたのだ。

 

 

そして時が流れ現代に至ると、SNSを通じて多くの人が実際には知らない人と繋がり始め、直接自分に関係ない話にも関わるようになることが当たり前になった。

 

少し前までだったら、知ることすらなかったであろうことを知り、さらにそのことに関して意見を言ったり聞いたりすることが当たり前になったのだ。

 

もちろん大前提としてそれを喜んでやっているのだが、そのことによって新たなストレスが増えているのだ。

 

ストレスだという自覚すら伴ってないかもしれないが、確実に身体と心を蝕まれている人は増えているのだ。

 

 

人間が感じるストレスの多くは、悪い噂話やゴシップを知ることがきっかけだったりするが、人間は本能に近いレベルで悪い噂話やゴシップを求めると言われている。

 

DNAや脳の原始的な部分には、昔から脈々と受け継がれた経験や思考の試行錯誤の歴史が残っていると言われる。

 

ゴシップや悪い噂に反応するのは、処世術やリスクマネージメントとして有効に機能した歴史が長かったからだと考えられている。

 

現代では、悪い噂話やゴシップは悪しき村社会の名残のように感じられるのは、リスクの種類が変わったからだ。

 

昔のリスクは、すぐに死に直結するものが多く、時代によっては死の1割から2割は殺人だったのだから。

 

悪い噂は、それが今でいうゴシップであっても、巡り巡って安全や平和を脅かすものに発展するケースが珍しくなかったのだ。

 

そう考えると、私たちがゴシップに惹かれるのは本能に近い反応だと理解できる。

 

ゴシップに反応する自分を恥じたり責めたりすることは、無用なストレスをさらに抱えることになるのかもしれない。

 

 

表面的には進歩であり便利に感じることの多くは、この数十年それを遥かに上回るストレスを作り出していたといえそうだ。

 

 

このように考えると、ゴシップはもちろん詐欺やフェイクは永遠に不滅だろうなと思えてくる。

死はいつも突然!

柔道家の古賀稔彦さんが突然亡くなられた。

 

享年53歳。

 

健康不安を伝える話もなかったので、まさに突然だった。

 

当初は死因も報じられなかったし、しばらくして癌で闘病中だったと報じられたが、癌の種類も伝わらず、私はもしかして真実を隠蔽しようとする何者かの意志が働いているのではと邪推したりしていた。

 

その後、約1年前には片方の腎臓を摘出していたとも伝えられた。

 

最も衝撃的だったのは、実の母親が息子が闘病中だったことを知らなかったことだ。

 

コロナ禍の1年であったことや、心配させたくないから伝えないでという思いだったのは、それなりの回復へのモチベーションの高さがあったからでもあるだろう。

 

 

私のような外野の一般人ですら、第一報を目にした瞬間は『えっ、どういうこと?』だったが、実のお母さんも立場は同じだったことが心苦しい。

 

 

思い出したのは、今から20年くらい前に聞いたことばで『死はいつでも突然』というもの。

 

余命宣告されてるような人ですら、死は突然なのだという話。

 

医療や看護や介護の世界の人の間では共有されてる考えだと教えられたことがある。

 

だからこそ、いつもと同じように振る舞うことに価値があるし意味があるというふうに受け取っていた。

 

逆にいうと、改めるべきがあるならば、ゆっくりでもいいから確実に改善することに価値や意味があるとも感じていた。

 

 

そう感じたことは覚えているが、それで生き方が変わったかというと決してそんなことはなかった。

 

昨日、一昨日とスマホ脳を読んで、そこに書かれてある生活する上で意識して避けた方が良いこととされることは、死は突然だと分かっていれば、まるで興味が湧かないだろうことばかりのはずだ。

 

一言で言うなら、スマホの使用を減らせば良いだけなのだから。

 

 

死はいつでも私たちの目の前にあるんだと意識できれば、やれと言われてもやりたくないようなことを、やるなと言われてるのに夢中になってやっている、それが現代人の姿に見えてくる。

 

 

古賀稔彦さんが53歳で突然亡くなられたことにインパクトを受けてる人もいれば、10代20代だと交通事故を報じるニュースと大して違わないとすら感じているかもしれない。

 

私が今10代20代だったら間違いなく退屈なニュースにしか感じなかっただろう。

 

 

そういえば、以前『明日死ぬかもしれないと思って生きろ』というようなフレーズが流行ったことがあったなと思い出した、自己啓発的な何かだったような気がするが、私には全く響かないことばだった。

 

 

虎は死して皮を留め、人は死して名を残す

 

という諺があるが、古賀稔彦さんの死で、ちょっと違うかなと感じている。

 

人は死して、生きることの意味を考えさせるのではと感じてる。

 

 

もっとも、死ぬのが誰なのかでまるで反応は違うだろうが。

 

特に柔道に興味があったわけでもないので古賀稔彦さんにも特に思い入れがあったわけでもないが、なんだか考えさせられる出来事になっている。

『スマホ脳』のススメ!(追記あり)

昨日のブログでスマホ脳に触れて、夕方本屋に行ってちょっと立ち読みしようかと思ったけど、ろくに中身も見ないで買ってしまった。

 

 

   

 

 

全部で約250ページの3分の1ほどまでしか読んでない状態で、おそらくこの後が本題で、私が読んだ部分は少し長いプロローグ的な話だと思うが、この時点で買って良かった、すでに元は取ってお釣りが来るくらいだと感じている。

 

啓蒙書の類でここまで惹かれた本はなかった。

 

以下の話は、3分の1しか読んでないが、この時点でこの本のどこにそんなに惹かれたのかを記したい。

 

 

タイトルはスマホ脳となってるが、このタイトルのせいで食わず嫌いを感じやすいかもしれないが、もちろんそんな狭い話ではない。

 

いろいろな書評やTwitterでの反応等も見ていて、興味を感じていたので買ったのだが、事前に持っていた先入観を大きく超える内容で、私が個人的に疑問に感じていた多くのことに答えが見つかるような気すらしている。

 

あるいは、世間で起きてる変な出来事がなぜ起きてるのかということにも自分なりの一本筋が通った理由が見出せるような気もしている、3分の1しか読んでないのにだ。

 

昨日のブログでも書いたが、現代人が食べ過ぎと運動不足から生活習慣病を起こすのは、私たちが持つDNAなどの原始的な要素は飢えに対処する機能は備えていても、飽食や過食や運動不足は想定外なのだと意見を持ってるが、そのような話が冒頭から出てくるのだが、私はそこで止まっていたが、著者はそこでは止まらずもっともっとどんどん掘り進めていくのだ。

 

その結果私が、断片的に、中途半端に、知っていたことや、知らなかったことなどが、鮮やかに一つにつながっていくような話が展開されるのだ。

 

この辺の話は、書評などではほとんどが割愛されているところを見ると、私のような反応はマイナーなのかもしれないが。

 

現代人の悩みは大きく分類すると、①経済的な悩み②人間関係の悩み③健康の悩み、に大別される。

 

細分化するとキリがないが、結局細分化されたものの多くはこの三つのどれかに行き着くと考えられる。

 

適度な悩みは人を活性化させる、逆にいうと、活性化してれば悩みのレベルは適度だと判断されるのだ。

 

しかし、悩みの度が過ぎると人間はおかしくなる。

 

 

現代では、悩みが心や身体に与える悪影響について、医学や心理学や哲学などさまざまな側面から少しでも解決すればとアプローチがなされているが、解決以前に、なぜそんなことになるのかというメカニズムすら一般人が納得できるようなレベルではわかっていない。

 

赤ちゃんの声がうるさいとキレる老人の話も良く聞くし、煽り運転は社会問題化するし、同じ怒りの分野でもビジネスライクな現場では、怒りをコントロールするためのアンガーマネジメントなども出てきてるが、そもそもなぜそんなことで怒るのかという根本問題は手付かずで、脳の萎縮など老化や退化に結びつけることも多い。

 

どれも納得できるようで中途半端な感じも拭えず、しばらくすると多分違うなとしか思えなくなる。

 

そんなことを全部まとめてスッキリさせてくれるような話が、前半の3分の1に凝縮されているのだ。

 

凝縮しても本の3分の1を必要とするということは、要約することは無意味かもしれない。

 

知らない話のオンパレードではなく、知ってるはずのことがバラバラだったのだと気付かされるのだ。

 

部分的に引用したい気持ちもあるのだが、多分それだと伝わらないような気がするのでしない。

 

 

ただ、書評の多くはそういうことを感じたという風には表現されてないものばかりなので、繰り返すが私のような反応がマイナーなのかもしれないが、この本は書評や要約を読んで、読んだ気になることが損につながるような気がする。

 

 

この本は、読めば悩みが解決するという本ではなく、なぜそんなことで悩むのかが解決する本だと言える。

 

『そういう理由で悩んでいるのか』と分かることで、悩みは悩みですらなくなるということはあり得るのだ。

 

そういう意味でこの本はおすすめだ。

 

 

冒頭でAmazonのリンクを貼ったが、この本は紙の本がおすすめ。

 

スマホ脳を電子書籍で読んでると、病んでる感が強い気がする。

 

 

一旦、この状態でブログを上げ、残りの全部を読んだ後で追記したい。

 

 

<追記>

 

残りを読み進めながら、相変わらずのおもしろさを感じながら、これまた要約するのは馴染まないなと感じられ始めていた。

 

そして途中から、どの部分がそうなのかということではなく、全編を通じて言えることとして、この『スマホ脳』は現代の事例を豊富に盛り込みながら、内容も文体もマズローの欲求5段階の話を、より平易にかつ洗練させた話になるのではないかと思えてきた。

 

決して私のことを言ってるわけではないのに、自分ごととして受け取りながら読めていた、こんな体験は初めてかもしれない。

 

 

慰めたり、励ますような話が展開されてるわけではないのに、読むと心が軽くなる気がしてくる。

 

悩みや心配がある人は、それが解決するわけではないが、確実に心の重さが軽減されるはずだ。

 

いろいろな分野で、専門の細分化が起きていて、それらが独立して扱われると、本当はつながっているはずの全体像を俯瞰で見るという単純なことが最も困難になる。

 

この本には、俯瞰で全体を見渡した話が書かれている。

 

 

本書内でも取り上げられてるテーマの一つに、気が散ることと集中の対比がある。

 

 

こんなことが書かれていた、具体的な事例は示されずに。

 

 

 

自動化や人工知能の普及により、消えてしまう職業は多い。人間に残される職業は、おそらく集中力を要するものだ。皮肉なことに、集中力はデジタル社会で最も必要とされるものなのに、そのデジタル社会によって奪われてもいる。

 

 

 

どうせ読むなら、急いで読む必要はないが、集中しながら読まないと、もったいない。

人類は、今も昔も脳に振り回されている

スマホ脳という本が話題になってる(ような気がする)。

 

 

 

 

著者がインタビューを受けて語ってる次の話はおもしろい話ばかりだが、わたしが『なるほど、やっぱりそうだったのか』と思ったのが引用した部分。

 

 

スマホの魔力が脳をハックする。『スマホ脳』著者が語る、スマホ依存の正体

アンデシュ・ハンセン氏(以下、ハンセン氏):人間の生態は1万年前からあまり変わっていません。昔、人間はずっと狩猟採集民として生活していました。常に危険と隣り合わせの生活の中では、他のことに注意を向けること、言い換えると「気が散りやすい」という性質は、生き延びる上で非常に重要だったと考えられます。

 

 

狩猟民族とは危険の種類や程度は違うが、農耕民族にも当てはまるだろう。

 

気が散りやすいと表現されると、集中できないことを意味し、悪いことのように感じるが、そのことを現代風に言いなおすと、シングルタスクの高速切り替えであったり、シングルタスクという波を次から次にサーフィンしてることになるのでは、と思える。

 

だとすると、持て囃されるマルチタスクは本当にマルチなのかは疑った方が良いだろう。

 

気が散ってあれもこれもと手を出した結果が、たまたま良かっただけかもしれない。

 

だとすれば、再現性は低いはず。

 

 

この本が出る前、同じようなテーマでNHKも特集を組んだことがあった。

 

 

“スマホ脳過労” 記憶力や意欲が低下!?  2019年2月19日

いろいろなことを同時並行にやっていると思うのですが、脳は、実はマルチタスクはすごく苦手なんですね。できれば1つのことに集中したいのに、いろいろなことを同時並行できないから、早く切り替えていく。そうすると脳にストレスがたまっていくというのが、今、スマホで起きている脳過労の原因なのではないかなと思います。

 

 

この傾向は、スマホが普及する前からあったような気がする。

 

携帯電話の登場以降の通信技術の発達と、1995年のWindows95の登場で家庭がサテライトとして機能し始め、モバイルというジャンルが少しずつ顕在化し、10年くらい前からその存在が無視できないレベルになっているが、だからと言って、今更スマホをはじめとするモバイル環境を悪者にしたってしょうがないはずだ。

 

 

このように考えていると、現代人に特有の病気としての生活習慣病(以前は成人病と呼ばれた)との共通点に思い当たった。

 

人類の誕生が600万年〜700万年前とされる、諸説あるのでこれが正しいかは別にして、歴史的に見るとつい最近になるまでは多くの人類にとっては、生きることを阻むのは飢えと寒さだとされた。

 

しかし、都市型の生活ができてる現代人は、食べ過ぎと運動不足という問題を抱え始めた。

 

おそらく現代人のDNAにはまだ過去の歴史が多く刻まれてるはずなので、食べ過ぎや運動不足が慢性化した場合への対処というのは刻まれてないはず。

 

食べ過ぎているのに、身体は飢えに対抗するように反応する、それが生活習慣病につながっているとすれば、これは意思でコントロールできない自律神経系のトラブルで、つまるところ脳の問題に行き着く。

 

食べ過ぎや運動不足の問題と、スマホ脳に代表される過剰な情報摂取や、マルチタスクと呼ばれる複数の情報を同時処理しようとして人間が異常を来すのも、どちらも同じ構造の脳の問題に見えてくる。

 

共通してることは、嫌なことをさせられての結果ではなく、自らやりたくてやって嵌っていくのだ。

 

 

好きでやっていてもやり過ぎると良くないと言われるものは昔からあった。

 

やり過ぎにはさまざまなものがあるのだが、改めて考えてると、問題になるやり過ぎには傾向があるような気がしてくる。

 

やることが好きでやってることの場合よりも、やる理由はやった結果を求めての場合というケースで、問題が起きることが圧倒的に多いように思える。

 

最初は好きから始まっていても、途中からは好きだからというのは動機から消えてしまってる場合が多いように思えてくる。

 

好きで始めたことでも、継続する理由は好きだからではなくなっているのだ。

 

だから、不満が多くなる。

 

怒りやすい人やキレやすい人が増えていることとも無関係ではないだろう。

 

やろうと思えばなんでもできる時代に一見なっているのだが、結果が出せることは何かと問われたら『何もない』という時代でもあるのだ。

 

何もないのは探し方が悪いからかもしれないし、まだ足りない何かがあるのかもしれないと、もっともっとと情報を求め続けることがスマホ脳につながる背景にあるような気もする。

 

 

脳内で起きてる作用は、不足しても過剰でも問題で、それは感情や意欲を極端に上げたり下げたりする。

 

現代人は、外見からは分かりにくいが、脳内や身体内は極端な振幅で揺れている。

 

私たちは、気づきにくい自分の内側にあるものに、コントロールされているのだが、そのことに気付けるのは自分自身しかいないのだ。

 

 

 

『スマホ脳』、まだ読んでないが、予測してるような内容なのか確認するために読んでみようかという気になってきた。

『日本の外からコロナを語る』を読んで(2)

今日紹介するのは、

 

2.上海(中国)

3.台北(台湾)

 

 

上海の話を書いてる筆者は在住歴20年のフリーライターで、コロナが危険だぞと認識されたのは2020年1月21日らしい。

 

上海を含めた中国のコロナ対策のキーワードは『悶』だったらしい。

 

悶死、悶絶、悶々、良い意味で使われるイメージがない悶は、コロナ対策に関しては、コロナウイルスに向けられたことばだった。

 

ウイルスは人体に入らなければ数日で死ぬので、人に出会わずに自然に死んでいく機会を増やそうというもので、家に閉じこもって人間が悶々としてる時は、外でウイルスも悶々として死に向かっているという考え方で、この悶作戦は劇的なまでに市民国民に共有され、実際に効果を表した。

 

日本で、中国での劇的な改善が報じられてるのを見ていたわたしは、重大な事実を隠蔽してるのだろうなと疑っていたが、実際に生活していた方の話を読むと、本当に改善が実感されていたことがよく分かる。

 

 

また、日本と違い、同調圧力もなければ自粛警察もいなかったらしいが、それは良くも悪くも『自分には関係ない』ということらしい。

 

コロナを通して、上海の人々の一人一人がそれぞれバラバラという生き方が、日本人の生き方と違っているなと改めて気付かされたらしい。

 

 

〜〜

 

台北の話の筆者は、在住歴30年になる方で、最初は日本語教師として、その後フリーペーパーの編集や旅行サイトの編集長を経験。

 

筆者が、コロナに対する危機感を認識したのは2020年1月末で、2月1日で台湾を含む全中国便の往来を禁止すると、ベトナム政府が通告したことかららしい。

 

この通告は、台湾政府がベトナムに抗議し、台湾に関しては撤回されたらしいが。

 

この筆者の話で最も興味深い点は、世界で最もコロナ対策が成功した国の一つとして評価されてる台湾の対応が、実は偶然のタイミングの一致が関係してたことを教えてくれてることだ。

 

次の記事は今年の1月のもの。

 

域内感染「ほぼゼロ」の台湾にみる、正しいコロナ対策

 

 

このような評価が得られた背後にあった偶然とは、次のような事情だったらしい。

 

感染期の初期である1月〜2月に中国人観光客が台湾に来ることが抑えられたことが最大の要因なのだが、1月の総統選挙で中国と距離を置く民進党が勝利したことで、中国が報復のために台湾へのビザ申請許可を規制したため、中国から台湾への出国者がシャットアウトされていたのだ。

 

冒頭の上海の話のように中国側のコロナ対策も劇的に効いていたので、この感染初期に中国からの人の上陸をシャットアウトできたという偶然が台湾にはとてもありがたいことだったし、初期の感染期に中国人観光客をどのような形で受け入れていたかが、その後の各国の感染状況に影響していたかがわかるような気がする。

 

台湾の方は、日本へ旅行するのが好きな方が多いようで、それを紛らすかのように偽出国ツアーというのが催されていたらしい。

 

空港に集合し、チェックインして免税店で買い物をし、その後飛行機に搭乗し、豪華な機内食を堪能しながら沖縄、奄美、九州など日本近海を通常よりも低空で飛行し、陸地が見える状態での遊覧を行い、3時間ほどで出発空港に戻るというツアーが人気だったらしい。

 

 

もともと台湾人には移民気質が感じられていたが、コロナ対応にもそれが感じられるが、それ以上に日本人が土着体質であることも再認識されたらしい。

 

おそらく、自分が土着体質であると自覚できてる日本人は少ないだろうなと思える、わたしがそうであるように。

 

日本と近い国だけど、意外とその事情は知らないものだなと教えられる。

『日本の外からコロナを語る』を読んで(1)

わたしを含めて日本国内でドメスティックに生きてる人は、少々情報アンテナを広く張ってるつもりでも、実際には狭い偏った情報に振り回されていそうな気がするという話。

 

コロナに関しても、情報に基づいての行動や判断というよりも、自分の性格に基づいて楽観的だったり悲観的に行動したり判断したりしてるだけで、さらに言うと自分の周りの人と同じ行動を取ったり、あるいは反発してるだけに過ぎないとすら言えるかもしれない。

 

医者や政治家、有識者を含めて皆バラバラだし、ニュースや報道が伝えることも内容を疑い出したらキリがないくらいバラバラだ。

 

こんな時に役に立つのは、生活に密着したレベルで発される情報だ。

 

 

おもしろい本を見つけた。

 

 

 

 

9つの地域の実情を、現地在住歴が長い日本人の目を通すとどのように見えていたのかを示すことで構成されている。

 

  1. ニューヨーク(アメリカ)
  2. 上海(中国)
  3. 台北(台湾)
  4. ホーチミン(ベトナム)
  5. シェムリアップ(カンボジア)
  6. ソウル(韓国)
  7. バンコク(タイ)
  8. パリ(フランス)
  9. マニラ(フィリピン)

 

 

まだ、全部読んでないが、備忘録的に印象的な部分を記したい。

 

もちろんこの本に書かれてることも偏ってるかもしれないが、ここに書かれてることは実体験に根ざしていて、誰かの利害に配慮しながら書かれたものではないということは読んでいて伝わってくる。

 

この本には、ニュースや報道が伝える内容とは違った話が出てくる。

 

それぞれの方にはそう見えたと言う話であって、正解やたった一つの真実という話ではないが。

 

 

1.ニューヨーク

 

筆者はニューヨークを拠点にして活動する音楽プロデューサー。

 

日本で一斉休校などの影響が出始めた2020年2月末のニューヨークは、コロナに関しては他人事だったが、他人事でなくなったのはその半月後。

 

在米歴37年近くになる筆者の述懐によると、80年代後半には十分華やかだったニューヨークは、コロナ直前の頃と比べると人が少なかったし、汚れた印象の街だったし、治安も良くなかったらしい。

 

人が増え、綺麗になり、治安も良くなったニューヨークはビジネスやエンターテインメントの街として以上に観光の街として膨らんでいたのだ。

 

その街から観光客が消えた。

 

ニューヨークで生活し始めた頃に先輩住民に教えられていたのが『寒い日には気をつけろ』、寒い日には犯罪が激増するのがニューヨークだったらしい。

 

コロナのせいで時代が逆戻りするのではと感じるようになったのが、観光客がいなくなり、エンタメの開催が全て止まり、ビジネスはリモートで展開されるようになって、表向きの人の移動が激減した中で、街で大規模なクラスターが発生したからだ。

 

クラスターの発生源はホームレス。

 

コロナ前から問題だったホームレスが、更なる問題になったのだ。

 

コロナ前のニューヨークのホテルは誰が泊まるのかと思えるほど高価だったが、どこも満室だったが、コロナでどこも空室になった。

 

約700軒あるホテルのうち140軒ほどが、クラスター防止のためにホームレス同士が接触しないようにするために分離させるためのシェルターとして使われるようになったが、それがどこなのかは公表されてないらしいが、1日あたり2億円が支出されてるとのこと。

 

おまけに刑務所でもクラスターが発生したため、軽犯罪者がクラスター回避のため釈放されホームレスとなり、これらのホテルで生活しながら、新たな犯罪を犯すのではと心配が尽きないらしい。

 

 

アメリカでのコロナ感染にBCGの接種をしないことが関係してるのではという話は日本でも取り上げられたが、これも日本人だと知らない事情が関係してるらしいのだ。

 

BCGを接種するとは、無毒な結核菌の保菌者になると言うことで、ツベルクリン検査で陽性になる可能性がある。

 

アメリカでは、政府職員や学校の先生や警察官など公的な仕事に就く場合、ツベルクリンで陽性が出ることが障害になるらしい。

 

このために、BCG接種をしない人が多いとのこと。

 

 

人が集まることで華やかな発展を遂げたニューヨークだが、人を集めての発展はもう無理ではないかというパラダイムシフトが起きつつある気配も漂っているらしい。

 

 

筆者は、在米25年経った時にアメリカ国籍を取ったらしいが、そういう人に対して日本政府は冷たいと言う話も書いてある。

 

それが高齢の親とのことであってもだ。

 

 

この本は、自分がその地にいたらと感情移入して読むと、日本で生活してるのとは違った風にコロナのことが見えてくるようでおもしろい。

 

 

気になるところをちょっとだけ抜き出してまとめようと思ったが、結構な文量になりそうなので、今日はニューヨークだけにして、しばらく続編を続けてみたい。

自称〇〇という裸の王様!

事件を報じるニュースなどでたびたび目にするのが、容疑者や犯人のことを『自称〇〇』と表現すること。

 

 

Yahoo知恵袋に次のような質問と回答があった。

 

 

知恵袋の回答者に自称〇〇と偉そうに職種を書いて回答する人がいますが、こういう人に限って全くの見当違いでまともな回答をよこしてきませんよね。知ったかぶりして何かを自慢したいのでしょうか?

 

 

いますね。回答文の最初に「不動産屋です」とか「電気屋です」とか「保育士してます」とか。いちいち言わなくていいから!と思いますよね。

 

 

ニュースで伝えられる自称〇〇を目にした場合の印象は、『自分の正体を隠そうと足掻いてるんだろうな』や『この期に及んでまだカッコつけようとしてるのかな』が多い。

 

また、日常生活の中ではホラ吹きや嘘つきの人を揶揄する場合に、小バカにするように名前で呼ばずに『自称〇〇』と呼んだりしたことはあるが、これは極めてレアだったように感じる。

 

 

バブル景気で日本が賑わってる頃、わたしはペーぺーの社員で、ある会合に部長のお供で同席したことがある、あるリゾート開発に関する会合で、列席者の中には都市銀行の取締役もいるような会合だった。

 

その場で、皆から会長と呼ばれてる人物がいて、胸には議員バッジと思しきものが付いていたので、『あの人何という名前の議員ですか?』と部長に聞いたら、『シーっ』と言われ、小声で『あれ偽物でそこは触れてはいけない』と言われた。

 

堂々とした表社会の最前線だと思っていた場は、結構嘘くさい胡散臭い現場だと初めて気付かされた時だった。

 

 

こんな出来事を思い出させてくれたのは、次の記事。

 

 

 

椎名林檎「自称クリエイター」を揶揄していた アルバム曲の歌詞に「佐々木氏の件を知ってから読むと...」

 

 「自称クリエイターの唐突なじぶん語り」

 

「気温差やばい業務内容ともう関係ないじゃんよ」

 

「ドキュメンタリー番組映え」を意識することへの批判と思われる内容や、声の大きい人が嫌い、カリスマ性では人を救えない、

 

など辛辣な歌詞が綴られている。

 

 

 

渡辺直美さんの件に端を発した現場の実情を伝える、これぞThe日本と思える昔ながらの展開が感じられて香ばしい気がした。

 

 

 

自称〇〇の多くは詐欺的な展開で、何も持たない人間が、何かを持ってるように装う場合の展開で、学歴詐称や経歴詐称と共通する心理のなせる術だろう。

 

この世には、それなりの地位や知名度をすでに得てるはずなのに、それだけでは満足できずに自称〇〇を付け足したがる人の何と多いことかと改めて感じる。

 

多いというよりも、発覚した時の愚かさのインパクトが悪目立ちするのだ。

 

ビジネス上でも、いつまでも過去の実績のアピールが求められる。

 

ついつい自分を大きく見せたくなるのは、大きく見せないと入り口ではじかれるシステムが浸透してるからでもあるかもしれない。

 

未来に立ち向かおうとする場合に、過去の実績が武器になるはずないが、人間関係の中では、過去の実績は大義名分や免罪符として機能することが少なくない。

 

 

裸の王様の話と同じだなと思える。

 

裸の王様の話は笑うくせに、似たようなことは現実に繰り返されている。

 

 

自称〇〇や裸の王様が、発覚後に失脚することで、少しづつゆっくり日本は変わってると思いたいが、果たしてどうなのだろうか?

 

 

そういえば、今の日本の総理大臣は、総理大臣になりたての頃、自称苦労人と話題になっていたなと思い出されると、香ばしさが一層募って来る。