違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

フラストレーションとカタルシスのいたちごっこ!

小説やドラマや映画の脚本のアイデアはほぼ出尽くしたのではと感じるくらい、世の中は予定調和で溢れている。

 

創作の世界で一定の評価を得ようと意図すれば、カタルシスを描くのが定番だと思うが、スカッとしたりスッキリするよりも、『ああ、その手で来たか』と、カタルシスすら予定調和を感じさせる風潮があるのは、アートを含めた商業的な産物は広告的な発想で企画されてることが透けて見えるからだ。

 

コロナ禍で、現実社会に蔓延っていた予定調和なんて吹き飛ばされるのかなと思っていたが、果たしてどうなのだろうか?

 

検索すると、現代の予定調和とは、子供が大人のミニチュア化するという形でも現れていることが感じられた。

 

 

コロナ禍で人気職業に「会社員」 『大人になったらなりたいもの』調査結果を発表 2021年03月17日

第一生命保険は17日、全国の小学生・中学生・高校生計3000人を対象に行った、第32回『大人になったらなりたいもの』のアンケート調査結果を発表。それぞれの1位は、小学生・男子「会社員」、小学生・女子「パティシエ」、中学生・男子は「会社員」、中学生・女子「会社員」となった。「会社員」の人気が高い背景について“コロナ禍で在宅勤務が広がり、親の働く姿を身近にみるようになったこともある”と分析している。

 

 

もっと具体的な事例としては、次のようなものまであるようだ。

 

絶句「僕の将来の夢は…」大人を悲しませた10歳の素朴な発言 2021.3.13

「僕は、将来は社長に気に入られる社員になりたいです!」

 

と堂々と言ったのです。

 

 

 

10歳の子供が二分の一成人式で語った将来の目標に対して、周りの大人が拍手し、その子の両親は誇らし気だったと書かれてる。

 

まあ、幻冬舎の記事だから話半分で聞く必要があるだろうが、今の日本にはこういう風潮はありそうな気はする。

 

 

 

カタルシスの反対語は、フラストレーションやジレンマ。

 

サクセスストーリーとは、フラストレーションやジレンマを抱える人のカタルシスの物語。

 

サクセスの中身は、スカッとできて、或いはスッキリできるならなんでも構わないので、他人と共有できる必要なんかない、本来は。

 

 

冷えた体には温かいお風呂が心地良いように、温かいお風呂を楽しみたければ体が冷えることも許容できるとすれば、カタルシスを得たければ、フラストレーションやジレンマは必要だと言えるのかもしれない。

 

 

そう思わせてくれるツイートがあった。(どちらも見てないが)

 

 

 

 

 

最近の出来事でカタルシスを感じさせてくれる話題としてはこれがある。

 

 

 

 

この話題も、人によっては予定調和に感じるかもしれないが、池江璃花子さんに感情移入して自分事として考えるとカタルシスが感じられる。

 

 

フラストレーションやジレンマを解消するのがカタルシスだが、いつの頃からか、他人のカタルシスに便乗するフラストレーションという新ジャンルが出始めている。

 

 

ネガティブなイメージがある東京オリンピック関連の話題の中で唯一と言って良いポジティブイメージが池江璃花子さんの復活で、都合よく利用されることにフラストレーションを感じるが。

 

 

 

 

フラストレーションやジレンマのあるところには、カタルシスの可能性がある。

 

フラストレーションやジレンマとカタルシスは、いたちごっこを繰り返すのかもしれない。

 

そう思えると、フラストレーションはカタルシスの始まりであるとともに、カタルシスは新たなフラストレーションの始まりにつながるのかもしれない。

 

カタルシスを追い求める人ほど、フラストレーションやジレンマを抱え込んでるかもしれない。

 

くれぐれもマゾにならないように注意しよう!

記憶と快楽の関係(脳を喜ばせると幸せになれるかも)

世の中には、一回見ただけで、或いは一回読んだだけでその内容が頭に入る人がいる。

 

当然、このような人は受験勉強には強いので、そういう人を羨んだこともある。

 

一方わたしは、馬鹿じゃないつもりだったが、単純記憶系の作業が苦手だった。

 

 

 

この本には、マルチタスクの弊害として、海馬に記憶されることが望ましいことが、マルチタスクのせいで大脳基底核の線条体に記憶されることがあるとコラムとして書かれている。

 

一般的に事実や経験のようなものは、同時に多数の記憶と結びつくが、それはマルチタスクで得られた情報でなく、多数の情報や経験を全部引っくるめて一つの情報として海馬に記憶するかららしい。

 

旅行で訪れた街の景色は、その時聞いた音や感じた匂いやその他たくさんの事実や経験が全部まとめて一つの記憶として海馬に定着する(らしい)。

 

 

それに対して、線条体で記憶すると、覚えたことの一つ一つが独立してバラバラになりがちで、それがその後の体験や事実と結びつかなければバラバラなままらしい。

 

ただし、線条体へ記憶されるということは、それは快楽の記憶となるのだ。

 

断片的な情報に過ぎなくても、線条体に記憶されると、それは快楽の記憶となるのだ。

 

記憶系の勉強が得意な人がどんどん知識や記憶が増えていくのは当然だ。

 

 

この話(理解は中途半端な気もするが)を知って、わたしは線条体で記憶するのが苦手で、なんでも海馬で記憶しようとしてるのかもしれないと思い当たった。

 

だから歴史の年号を覚えるような単純な覚え方が苦手で、理屈を伴うものの方が覚えやすい。

 

テレビで『今でしょ』の林先生が、漢字の話をする時にただ正解を言ったり書いたりするだけでなく、その由来まで語ってくれると、同じ漢字でもただ字だけを覚えることと、由来まで知って覚えるのとではきっと記憶される脳の部位が違うのだろうなというのが実感できる。

 

 

このように、海馬で記憶することと、線条体で記憶することの間に、分断が生じてるのではと思い始めていたが、少し調べるとおもしろい話が出てきた。

 

その前に少しイメージして欲しいことがある。

 

鮮明で間違いのない記憶だと思っていたことが、実は事実と違っていたということは世間では良くある話で、記憶はさまざまな別の記憶や体験や事実や嘘や想像とも結び付き、記憶自体が変化していくことがある。

 

こんな時、正解を教えてもらっても、『ああ、そうだった』とはならない、むしろ『そっちの方が間違っている』と思うような気がする。

 

 

そんな違和感を解消することに瞑想が役に立つと言ってるような話を紹介したい。

 

 

 

 

リンク先のPDF(3ページ)を読むと、人間は事実や体験で一喜一憂してると感じていたが、事実や体験に記憶が連動することで一喜一憂してることが感じられる。

 

事実や体験よりも記憶の方が厄介らしい、とわたしは受け取った。

 

瞑想の効果に、科学や医学も注目してることが感じられる。

 

 

さらにおもしろそうな話もある。

 

厄介な記憶の呪縛から解き放つために瞑想が有効なのとはメカニズムは違うようだが、移動することの効果が脳には絶大のようなのだ。

 

 

幸せの鍵は新しい場所!人の脳は「移動」を快楽と捉えていた

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結果、移動に幸福を感じている人間の脳では、記憶を司る海馬と快楽を司る線条体(共に黄色い部分)の活動に強い連携が確認されました

 

 

 

この記事では、移動のスタイルについては書かれてないが、動物実験との比較もあることから、基本は歩くだろうと感じる。

 

人間を定義すると、二足歩行の哺乳類となることから、歩くというのは人間にとって特別なことだから。

 

 

いつもと違う、ちょっと遠回り、このような行動を楽しめる人は、脳が快感を感じているだろうから、特別なことは何もなくても幸せなのだろう。

 

 

ちょっとした習慣の違いで、幸不幸の差が大きくなってるような気がする。

 

Apple Pencilから始めるDX(デジタルトランスフォーメーション)?!

DX(デジタルトランスフォーメーション)。

 

言語明瞭にして意味不明瞭な最近のキーワードの一つ。

 

昨日のブログ を書いて、思い立ったが吉日とばかりにapple pencil を買ってきた。

 

これまでの人生で絵やデザインは、苦手中の苦手だと自負し、徹底的に避けてきた、頭の片隅では、できるようになったら気持ちいいだろうなと思いながら。

 

同様なものに楽器がある。

 

昨日のブログでは、apple pencil への興味の根底に絡んでる昔話を書いたが、本当はそれだけではなく、もう一つの切実な思いもある。

 

それは悲壮感を伴った挑戦と言っても良いかもしれない。

 

 

アナログからデジタルへの変化の流れに対応した結果、絵を描くこと以前に、字を書くことすら苦手な自分が出来上がった。

 

 

何かを間違えている、そういう思いがずっと燻っていた。

 

デジタルに対応してるつもりになってるが、おそらく低レベルで不十分なはずなのだ。

 

 

 

 

このレポートは、それなりの規模の企業にDXの売り込みを促進するために作られているのは明らかだから、多少割り引いて解釈する必要があるとしても、企業向けの話にとどまらず、個人の遊びや趣味に関しても参考になることが書かれているので、読む価値はある、ちょっと長いけど。

 

一箇所だけグラフを引用したい。

 

 

デジタル変革の障壁 マッキンゼー

 

数字以上に、挙げられてる項目に意味がある。

 

 

ざっくりいうと、ここで挙げられてることはデジタル変革が進まない場合の言い訳をカッコよく表現したものだ。

 

ここに挙げられてる言い訳は、個人の遊びや趣味にも当てはまるはず。

 

そうするとおもしろいことに、これを個人の行動や意識に当てはめると、組織だと他人のせいにできることが、全て自分のせいになるのだ。

 

 

グラフで、シニア…と書かれてる部分は、自分の心の中の老化した価値観とでも置き換え可能だろう、実際の年齢とは関係なく。

 

 

この中で、言い訳として正当だと言えるのは、資金の欠如くらいで、個人の場合、ない袖はふれないし、投資と称して借金することは個人に関してはダメだと感じる。

 

 

DXは、最初の出発点のコンセプトが大事で、デジタルにすることに意味があるわけではない。

 

 

 

 

このツイートには次のようなリプが寄せられていた。

 

 

 

 

スタートを間違うと上手くいかないのはデジタルであろうとアナログだろうと同じだが、デジタルの方がわざわざやってる感は強いので、上手く行かなかった場合の徒労感は大きいはず。

 

間違った取り組みを敢えてやって、結果失敗するという経験があると、もうやりたくないという思う人には、最初の発想が間違っていたという反省には辿り着けない人が意外と多いのかもしれない。

 

 

ビジネスであろうと遊びや趣味であろうと、挑戦は必要だし、挑戦するかしないかの障害は気持ち次第なのだ。

 

挑戦の多くは、全くの未知ではないことがほとんどで、どこかの誰かの成功事例はすでに存在してることが多い。

 

多くの場合の挑戦とは、自分なりの再現への挑戦なのだ。

 

 

再現したい成功事例を知ることがスタートには重要なはずだと、apple pencilを前にして思っている。

 

一週間でどの程度のことができるか試してみたい。

Apple Pencil買ってみようかな、まだ買ってないけど

ずいぶん昔の会社の先輩で、わたしが入社したての頃に、まもなく定年を迎えるというくらい歳の差がある先輩のことをふと思い出した。

 

歳の差はあったが、ギャップを感じることなく先輩と思える方だった。

 

この先輩には素晴らしい特技があった。

 

常にハガキを持参して、出張等で出かけた先の風景を絵にしたためて、親しい取引先などに送っていたのだ。

 

一緒に出かけると、『ちょっと待って』と言って、ものの10分くらいで絵を描くのだ。

 

もちろん緻密な絵ではないのだが、とても味のある絵で、絵はがきを受け取った方は嬉しいだろうなと思える出来なのだ。

 

もしかしたら、大したことなかったのかもしれないが、自分にはできないという思いが強かったので、嫉妬を感じるほどだった。

 

 

それから数十年、絵を描くなんて無縁な人生だったが、絵だけでなく、字を書くことすら激減している。

 

キーボードに頼ってばかりで、たまに字を書くと、署名ですら心許ない気がする劣化ぶりを自覚する今日この頃になっている。

 

指先自体を使ってないわけではないのだが、字や絵という大袈裟にいうとアーティスティック作業に指先を使わなくなっているのだ。

 

 

なんかやってみようかな?

 

そうだ、ApplePencilがあるじゃないかと思い付いた。

 

今までも、時々思うことはあったが、どうせ出来ないし、で終わらせていたが、ボケ防止も兼ねて今やっておかないと、この先で一念発起しても遅すぎるかもしれないと思い始めた。

 

 

たぶんこのニュースに触発されたような気がする。

 

 

想像以上の池江「今すごく幸せ」 プールが気持ち変えた

 

 

 

よし、ApplePencilを買おう!

そうではなかったこと!?

paypayが有料化するという話題が流れてきた。

 

 

 

 

 

この二つのツイートを取り上げたのは、その内容を読むと、paypayは現金と同じだったから販売側が支払いシステムとして採用していたことが分かるから。

 

paypayに関する問題点や課題は次のブログがとても詳しく参考になる。

 

ブログ主は、現在はレストラン運営に携わってるが、かつてはスマートフォンの開発に関わるなどITには精通してる方。

 

 PayPayが加盟店手数料を有料へ転換。店舗はどう対応するのか。 2021.04.03

前提が長くなりましたが、つまり加盟店からすると、他のキャッシュレス決済は導入したくないけれどもPayPayならば導入しても良いと考えた最大の理由は、手数料無料なのです。PayPay側のキャンペーンにより送客してもらうなどの副次的な効果はあるにせよ、本命中の本命は手数料だったのです。

 

 

単独ではただの赤字を垂れ流すだけの施策が可能だったのはソフトバンクグループの巨大さゆえに、先行投資額として許容範囲に収まっていたからなのだろう。

 

赤字事業を多数抱えるソフトバンクからすると『別にどおってことないよ』ということにも見えていたが、そうではなかったのだろう、だから電子決済市場で独り勝ち出来たと思えるこのタイミングで手数料を打ち出したのだろうと思える、予告されてたとはいえ逆襲に転じたということだ。

 

 

 

話は変わるのだが、そうではなかった、といえば私にとってはメルカリの存在がある。

 

GoogleTrendsで見ると、注目と浸透の様が時系列で感じられる。

 

 

Google Trends 『メルカリ』2004年以降

 

 

2013年に誕生し、2016年に黒字化したとされるメルカリだがフリマアプリと呼ばれることから、わたしは家庭で余っている不用品のマッチング市場だと思い込んでいた。

 

基本的には当事者の合意のみだけで成立する市場でクレームの処理が不十分なはずだと思い込んでいた、しかも実際のフリーマーケットと違い目の前で現物を確認できるわけでもない、だから、出品者は気軽だとしても、購入者はリスクを抱えるなと思っていたので、わたしには無理だなと感じたので、世間も同様だろうと思っていたが、そうではなかった

 

自分が利用したことがないし、するつもりもないから、利用してる人たちの気持ちがピンと来なかったが、一定程度の信頼が担保されれば個人売買はハードルが下がるのかもと思えてきた。

 

使い込めば故障の発生が避けられないものは取引に馴染まないと思っていたが、買って日が浅いものであれば、今時の電化製品や工業製品はそう簡単には故障しないと思い込んでる人は、今や過半数というかほとんどなのかもしれない。

 

そういう人にとっては、フリマアプリは気軽な存在なのだ。

 

わたしのように、初期不良を何よりも恐れる人の方が圧倒的にマイナーなのかもしれない。

 

 

商品レビュー系のYouTubeをよく見るが、同じジャンルの商品を多数買ってる人が少なくないのだ、そこで遅ればせながら気付いたことがある、そうではなかったと。

 

 

ニューモデルが出るたびに、次から次に買ってるYoutuberの家や部屋は、買った商品の置き場で大変なことになってるだろうなと思っていたが、あるYouTuberが視聴者からの質問に対して『今は〇〇(商品名)は手放したので……』と答えているのをみて、『たくさん買っても手元に残すのはごく一部だけなんだな』と気付くようになった。

 

いや、むしろこのようなパターンよりも、よく見かける『フォローしてくれたら抽選で〇〇をプレゼントします』的なものにもメルカリトリックが使われていると気付くようになった。

 

 

 

 

たくさん買ってる人の多くは、一見、多額の出費や投資をしてるようで、転売などで元を回収していたり、そもそも少額な詐欺的な投資で出費は少額に抑えているのだ。

 

一方で、名目上は中古品になるものであっても、今時は品質の劣化は無視できると思えれば、取引きにあたっての心理的なハードルは下がるはずだ。

 

そうすれば、価格さえ折り合えれば取引きは成立しやすくなるのだろう。

 

限定品や品薄品であれば定価より高くても成立する余地が出るのは、現物が存在する取引であっても、ディスプレイ上の情報として処理されているからだと気付くと、購入に当たって商品を吟味することは減るはずだと思えてくる。

 

吟味して選択するのは、失敗したくないからだが、失敗しても転売できるし、メルカリで捌けば、買った価格と大差ない価格で売れると思えば、吟味せずに思いつきで衝動的に買うことは珍しくなくなるだろう。

 

 

考えて吟味して選ぶ方が賢明だと思っていたが、世の中はそうではない理屈でも回っているのだ!

 

欲しいならとりあえず買え、買って失敗したら、その時どうするかを考えればそれで十分だという理屈は、結構浸透してるかもしれない。

 

 

金は天下の回り物というが、そうではなくて、最近回っているのは、不景気をものともしない物欲や消費欲なのかもしれない。

コロナ錬金術!

コロナ禍で儲けを追い求める人の傾向は、一攫千金がキーワードになるように感じていた。

 

まあ、一攫千金といっても先行投資は必要なので、結局はばくち要素が拭えないのだが。

 

主戦場は転売系に感じていた。

 

1年前の今頃は、マスクやトイレットペーパーは争奪戦が展開されていた

 

この場合、市場が盛り上がる直前にその気配を察知して、リーズナブルな価格で商品を調達する必要がある。

 

そういう意味では、目利き力と決断力とチャレンジ精神がバランス良く求められるだろう、成功したければ。

 

 

それ以外にも、補助金や給付金の搾取も一部で流行していた。

 

この場合は、手続きに精通した税理士など実務のプロが指南役として暗躍していた。

 

そして、本来受給資格の条件を満たしてない人に、架空のプロフィールをでっち上げさせて受給させるという手法を取っていた。

 

この場合は、転売系とは違い仕入れは発生せずに、手数料というあぶく銭を手に入れることになる。

 

わたしが知っていたのはこの程度だったが、今朝になって興味深いツイートが流れてきた。

 

 

 

おそらく、このようにしてなんの実害もないのに補償金を手に入れてる人は多数いると考えられる。

 

飲食店は苦しんでいて、補償金レベルではどうしようもないという論調の報道が、この手の錬金術の発覚をオブラートにくるんでいるかもしれない。

 

もしかしたら、政治家はこういう利用のされ方を知った上で休業補償という仕組みを作ったのではないかとすら勘繰れる。

 

オリンピックも怪しくなってきたし、これまでスポンサーとして国に付き合ってくれた企業や経営者に、国民にはバレないようにお返しをしなければと配慮する動きがあったとしても不思議はない。

 

バレなければ問題はないのだ。

 

 

今は、ただの思いつきを書いてるだけだが、錬金術という観点で世の中を見渡すと、もっともっと不自然な動きが見えてくるかもしれない。

 

もし、見つかれば続編を書いてみたい。

 

現代用語としての『お花畑』!

使われると文脈から意味は分かるが、自分から使うことはなかったワードにお花畑がある。

 

もちろん、本当に花が植えられてる花畑のことではなく、少々揶揄する意味で使われるワードとしてで、こんなことを改めて書いてみようと思ったのは、今朝次の記事を見たからだ。

 

福原愛「ハマ不倫」商社マンの“既婚で憔悴”に7つのツッコミどころ!

「ただ、愛ちゃんは自分が不倫してるのに、Xさんが既婚者だったことにショックを受けてるっていうのはどうなんだろう」(Bさん)

 

「本当にそれ。6~7年ぶりにいきなり連絡をとってデートした相手と純愛を夢見ていたとしたら、愛ちゃんも相当、頭がお花畑なんじゃないかな……。男は最初から遊びのつもりだったかもしれないし」(Cさん)

 

「鈴木杏樹的なお花畑ちゃんって感じ? お花畑にいるから自分のこと以外はどうでもよくなっていたのかなぁ」(Aさん)

 

 

 

世間では、どういう使い方をされてるのだろうかと、Twitterを探ってみた。

 

政治にも使えそうだと感じさせる使い方があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

こんな議員に対してこんな国民あり、と思わせる使い方もあった。

 

 

 

※マキャベリスト:目的のためには手段を選ばない人

※オポチュニスト:ご都合主義者、日和見主義者

 

 

 

異なる視点で別次元で議論されてることを、同じ土俵の同一次元の話に置き換えるような場合にも用いられるようで、こんなツイートがあった。

 

 

 

 

人間は、人それぞれ自分なりの価値観を持っているが、言葉にすると同じような価値観であっても、その強弱や濃淡は無限のグラデーションを描くように多様に分布している。

 

むしろ、言葉にすると正反対のように見えても、強弱や濃淡の違いまで見渡すと、ほぼ同じ価値観の持ち主同士だということは決して珍しいことではないが、入り口が違うと出会わないということは多いだろう。

 

 

お花畑が見える人には、周りに見える花は当たり前の存在で、そのことに感謝したり、ありがたがることがないのかもしれない。

 

世の中には、花が見えない生き方を強いられてる人の方が多いくらいかもしれないのに、と思わせる使い方もあった。

 

 

 

 

お花畑はウィキペディアでは、妄想や空想であり、本質が見抜けてないこととされてるが、最近のお花畑の使われ方には、これに加えて独り善がりや自分勝手というニュアンスがより強くなってるような気がする。

 

そうしないとメンタルを維持しづらいのかもしれない。

 

 

本当は幸せなのに、自分のことを幸せだと思えてなければお花畑を思い浮かべ、どこかに理想郷があるように錯覚するのかもしれない。

 

不満やコンプレックスが多い人が夢見るのがお花畑だと思いがちだが、恵まれてるはずの人であっても、『もっともっと』という思いに取り憑かれてしまうと、脳内に架空の理想郷としてのお花畑を作り上げるように感じられる。

 

 

現代用語のお花畑とは架空の理想郷として使われているのだ。