違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

大きな山が動くか!?

何かのサービスや商品を選ぶ場合に何を意識するだろうか?

 

その商品やサービスが、一旦使い出したら長期間使うことになる場合は、その時間の長さに負けないことが一番大事だと思うようになったのは、わたしの場合は多分12〜13年前から。

 

今風に言うところのSDGsや持続可能性を意識したのがその頃だった。

 

ほとんどの人がブラウザはIE(Internet  explorer)を使ってた2003年ごろからFirefoxを使っていた。

 

その後いくつも新しいブラウザが登場し、その都度少し試してはFirefoxに戻るということを何度も繰り返していた。

 

Firefoxに戻った理由は、わたしにとってアドオンの使い勝手が良かったからで、その使い勝手の良さを諦めきれなかったからで、少々速度が遅いことは気にならなかった。

 

そんなある日(それが12〜13年前と記憶)ネット上である記事を見かけて、それがきっかけでブラウザをGoogleに変えた。

 

その記事のタイトルは確か『Firefox存続の危機』というようなものだったと記憶する。

 

その記事によると、Firefoxの最大スポンサーが契約の更新に応じないことで資金繰りがピンチというものだった。

 

そして、その最大スポンサーがGoogleだった。

 

記事を読んで、Firefoxへ持っていた信頼感が一瞬で霞んでしまったことを覚えている。

 

どちらかというと判官贔屓な性格だと思っていたので我ながら不思議だったが、その時思い浮かんだのは、最も使い勝手が良いものがある日突然使えなくなって、それから慌てて他を探すのは嫌だなということだった。

 

プロセスは同じだとしても、余儀なくされてから行動を起こすくらいなら、気持ちに余裕があるうちにチャレンジするくらいの方がよほどマシだと思ったのだ。

 

結論から言うとFirefoxは今も存在するから心配は杞憂だったが、Googleとの契約は2014年に終了しているので半分は当たっていたことになる。

 

 

思えばこの体験の辺りから、ストレスが強くなりそうなことに対して反応するようになったような気がする。

 

『そんなこと長続きしないだろう』と感じるものに最もストレスを感じるようになっていた。

 

こんな話を書く気になったのは次の記事を見たから。

 

 

日本で送金本格参入 米グーグル、新興企業買収へ 7/8(木)

既存株主のみずほ銀行などから200億円強で全株式を買い取る。グーグルは、資金移動業者として登録しているプリンを買収し、日本で個人間の送金サービスに本格参入する意向とみられる。

 

 

 

 

基本現金派で、せいぜい交通系ICカードまでは使うが、それ以上はまだまだと思っていたが、そろそろ年貢の納め時が近づいてるのかもしれない、これらの記事を見てそう感じてしまった。

 

 

日経の記事にはこんな図が載っていた。

 

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山は動くのだろうか?

簡単だけど難しいのが当事者意識の共有

朝、流しっ放しにしていたラジオでは子供の教育に対する親からの相談が話題になっていた。

 

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数ヶ月前に同じコーナーに相談していた方が、その当時の回答に対するその後について新たな相談を寄せてる方もいた。

 

取り上げられてる相談は不登校の子供の話題が多く、知識レベルでは新しいものは何もなかったのだが、今さらながら気付いたことがあった。

 

進行役のアナウンサーも回答者の方もともに言葉を選びながら優しく答えようとしてることがすごく伝わってきた。

 

この場合の当事者は悩みを寄せた親であり回答者であり進行役のアナウンサーなのだが、視聴者レベルでボーッと聞いてると当事者の中心は不登校の子供だと思い込みがちになるのは当事者意識がないからだったのだと気付いた。

 

 

一般的には、問題が自分に降りかかって来た時に直面するのが当事者意識。

 

当事者意識の多くは悲観的で、心配事や不安が次から次に湧き上がるだろう。

 

 

ラジオのアナウンサーや回答者が優しいのは当事者意識が共有されてるからこその悲観を楽観に転じさせたいという思いの表れだったのだ。

 

こういう時わたしは今の自分の気持ちをうまく表現してるような言葉をTwitterで検索したくなる。

 

 

 

 

共有や共感が時代のキーワードと言われながらも実際には個人主義が浸透している。

 

手柄や成果が評価される場合の多くは、評価はチームや組織でより個人に帰属されることが多くなっている。

 

当事者意識というのは共有されるものというよりも、自分だけの意識になりがちだ。

 

10年前ごろ、東日本大震災だけの影響だけではないが当事者意識が注目されていた。

 

当事者意識が世間から希薄になっていることを指摘し警戒を促していたように記憶してるが、それから10年わたしの目にはますます当事者意識は希薄になってるように見える。

 

 

最近政治に不満を持つ人の罵詈雑言は日常茶飯事になってるが、政治家にとっての当事者意識って何だろうかと考えると、清濁併せ呑むという言葉が浮かんだ。

 

良い意味ではないが、当事者意識があるからこそ利害関係のバランスを図っていたことが感じられる。

 

熱海で起きた土石流はもはや人災による事件の様相を呈してるが、そこには実際に作業する事業者はもちろんだが国や県や市などの自治体にもまるで当事者意識が無いのだ。

 

如何に当事者意識が無いかは次の記事を読めばよく分かる。

 

建設残土の闇 狙われる空き地

開発に伴って必ず生まれる“負の産物”、建設残土。

国が管理に乗り出さない中、大量の土が行き場を求めてさまよう状況が続きます。

 

 

 

この記事は熱海の土石流が発生するより前の2019年のもので、読む限り当事者は現場の被害者だけになるのだ。

 

そして、この話題を見てる世間も非難の声は上げるが当事者意識は希薄で他人事。

 

被害が自分に及んだら慌てて当事者意識を発動するだけ。

 

当事者意識が低い人は選挙に行かないことを政治家はよく知っている。

 

だから、当事者意識が低い人には政治は手を差し伸べない。

 

 

 

もうそろそろ学習できても良い頃なのではと思ってるのはわたしだけかも知れない。

 

増えてる名義貸し?

自分には関係ないなと思ったが、素通りできない記事があった。

 

 

マンション管理業務主任者、常駐義務を廃止 

 

 

この記事に対して、不動産業界の人々が一斉に名義貸しの幅が広がるのか、それとも狭まるのかと反応していて、改めて名義貸しについて思いを馳せてみた。

 

社会人経験が長くなると、怪しげな名前貸すだけでいいんだよという誘いを受けたことがある人は多いかもしれない。

 

わたしが受けた誘いの中で一番怪しげでわたしは参加しなかったことに、時期はバブル景気がはじけた後の96年または97年頃の話だったと記憶するが、同僚が担当する企業が予想外の黒字になり架空社員をでっち上げ給料として経費処理して節税をしたいということで、架空社員として名義貸ししないかと持ちかけられたのだ。

 

架空とはいえ、正規の給料(コミッション率が高いので自営業者として通用する)と架空の給料を合算した確定申告はしなくてはならない、当然そのための源泉徴収票も発行されるという話。

 

当時の本当か嘘かわからない常識として、士業の知人からも良く聞かされていたことに、確定申告で年収1500万円以下の人なんて税務署から見たら鼻くそみたいな存在だから何を申告してもノーチェックという話があり、それが前提になる、有る事無い事経費で申告して利益がないことにして名義貸し分の源泉徴収票で支払われたことになってる税金の還付を受けることが儲けになるというスキームの話を持ちかけられたのだ。

 

わたしは腰が引けて断ったが、わたしに話を持ちかけた同僚含めて名義貸しに参加した者は、数ヶ月後皆60万円から70万円の還付を受けたと喜んでいた。

 

自分の度胸のなさを少し悔やんだことを覚えている。

 

 

まあ、この話は論外としても、子供の名前で親が貯金通帳を作るというのも一種の名義貸しだろうが、これを咎める話は少ないだろう。

 

他にわたしが持ちかけられた名義貸しでおもしろいものには、通販の女性用化粧品の無料サンプルの申し込みもあった。

 

もちろん依頼してきたのは女性で、この女性は身近な男性に片っ端から頼んでいた、男性が申し込んでも大丈夫だからと言いながら。

 

断ったのは言うまでもない、下心もなかったし。

 

逆にいうと、下心があったらその程度だったらやったかもしれないと思う。

 

どちらも今と違って、ようやくPCが普及し始めた頃でまだまだアナログ時代の頃だった。

 

 

いつの時代も定番の名義貸しに、借金の連帯保証人というのがある。

 

合言葉は『俺(わたし)を信用してよ、絶対迷惑かけないから』。

 

 

 

出版されてる本の中には共著という著者が複数いるものがある。

 

この場合、その中の誰かは実質的には名義貸しという場合があるらしいとはよく聞く。

 

 

 

最近では不法就労の外国人がUber Eatsで働くために在留カードの偽造や名義貸しが増えているらしい。

 

 

熱海で起きた土石流被害は、人災である可能性が日増しに高くなっている。

 

施工に関係した業者だけでなく静岡県や熱海市の許認可や届出も今後問われるのは明らかだし、おそらく名義貸し等で真の責任者が不明となるような問題も絡んで実態解明が困難になることが予想される。

 

 

 

名ばかりの店長や管理職や責任者というのも広い意味での名義貸しに当たりそうだ。

 

映えを求めるのが流行だとするなら、名ばかりというのは需要が多いのかもしれない。

 

問題さえ起きなければ映えるから。

 

 

名ばかりの人が光り輝いているように見えてるかもしれないのが現代の特徴かもしれない。

 

 

あなたが妬んでるその輝きは、一皮剥いたら名義貸しによるものなのかもしれない。

『経済効果』って信じてる?

おそらく日本人の多くが納得するであろう見出しが踊っていた。

 

大谷翔平の経済効果は「240億円」“日本の球団1つぶん” の試算

240億円といわれてもピンとこないが、2001年にイチロー(47)がマリナーズに入団した際、球団のマーケティングチームのスタッフは、1年間の経済効果が50億円以上になると断言した。

また、宮本名誉教授が今年2月に発表した試算では、田中将大(32)の東北楽天復帰による宮城県への経済効果は57億円とされている。その約5倍の経済効果を、大谷はもたらすという。

「2011年に中日が優勝した際の経済効果は約219億円(共立経済研究所による試算)、2013年に楽天が優勝した際の経済効果は約230億円(宮本研究室による試算)でした。

 

 

 

納得できるのは、活躍を観客気分で観てるせいが大きいはずで、もし大谷選手が現在の自分の活躍を元に自分を高く売り込むために自らが作った試算だとしたら大きく支持されることはないだろう。

 

きっと大谷選手だったら飛距離200mのホームランだって打てるだろうという話と大差ないはず。

 

上記の記事のような経済効果は当たろうが外れようが無害なのだ。

 

しかし、経済効果が数字で示される場合の多くは売り込みに際しての交渉の材料として提示される。

 

何かを始めるための大義名分をサポートできさえすれば良いだけだからで、挙げられてる数字にどのくらいの信憑性があるかや、実際の効果がどの程度だったかという検証とセットで使われてることばではないだろう。

 

つまり、言った者勝ちなのだ。

 

何やら詐欺と同じ臭いが漂う。

 

 

こういう時、Twitterには率直な意見や声が多く上がってくる。

 

わたしと似たような意見をいくつかピックアップしてみると、

 

 

 

 

 

 

今日もどこかで、信憑性のない経済効果を盛り込んだプレゼンの作成に余念のない人がいるのだろう。

 

 

 

ちなみに経済効果ってどのように弾き出されてるかというと、総務省のサイトに載っていた。

 

 

 

経済波及効果を計算してみましょう  総務省

 

 

このサイトにはエクセルの計算シートのリンクが載っている…

 

 

 

良い子は真似しちゃダメ!

熱海の土石流が東京都議選に与えた影響

指摘されるまで気付かなかったが、今朝になって都議選で自民党が下馬評ほど伸びなかったことに対して熱海の土石流被害が関係していたはずだと言う声が目についた。

 

都議選の結果は、

 

2021東京都議選の結果

 

 

下馬評では自公で過半数獲得は想定内だった。

 

選挙プランナー三浦博史氏が都議選を予想…都民ファ39減で7議席、自民「50議席台」で公明と過半数超え

46議席を有する第1会派の地域政党「都民ファーストの会」(都民ファ)は“7議席”に大激減すると指摘。25議席の自民党は52議席と倍増が見込まれ、連携を復活させた公明党と過半数を占め都議会の勢力図が一変すると分析した。

 

 

この予想と結果の違いの間に起きていた想定外の出来事が熱海の土石流事件(敢えて事件と呼ぶ)。

 

きっかけは大雨だったかもしれないが、上流部の土地開発が被害を大きくさせてるし、土地開発には不透明な政治の関与が取り沙汰されてるからだ。

 

おそらくこの土石流事件が政治マターになることを自民党は恐れていたのだろうと気付いたのは、このニュースを見てからだ。

 

 

 

 

選挙が終わって日付が変わった深夜にそれまでとは違う数字が発表されたのだ。

 

救助者が増えて行っても安否不明者はずっと20名と報道され続けていた。

 

 

 

 

実際の居住状況とは一致しなくても住民票レベルの数字で安否不明者が20名レベルではないことは土曜日のうちにわかっていたはずなのに、訂正がされたのは都議選終了後の深夜だったというところに後ろ暗い意図が透けて見える。

 

 

最近数年で起きていた梅雨の豪雨被害は首都圏から離れた場所で起きていたせいもあるだろうが、首都圏の方にとっては地方の話で他人事だったかもしれないが、自分たちの行動圏内の出来事になると感情移入の度合いが違ってくるだろう。

 

コロナや東京オリンピックに漠然とした不安や不満を感じていた人々に具体的な恐怖を教えてくれたのが熱海の土石流事件だったのだ。

 

政治マターになるのは必然だろう。

 

もともと投票に行かない人の行動を変える力はないかもしれないが、投票に行く人の心理に大きく影響したことは十分あるはず。

 

 

安否不明者の人数を当初から実態に沿って報告していたら自公は惨敗してたかもしれない、政治がそのように判断したとすると、今後はますます伝えると不利になるかもしれない情報を隠そうとするかもしれない。

 

 

これから秋にかけてのどこかで行われる衆院選に向けての駆け引きはすでに始まっている。

 

政治家の言動の変化に注目すると気付くことが出てくるだろう。

 

生活は予想や予測で溢れてる

情報過多の時代では、人は見たい情報だけを見て、それ以外の情報は無いのと同じになると言われる。

 

見たい情報を予め設定し一生懸命探して見つける人もいるが、ほとんどの人がたまたま目の前にある情報を見たいと思ったら、それが見たい情報になる。

 

このような行動や判断はほとんど無意識に行われている。

 

 

球技では、ボールの動きを見極めてからそのボールの動きに合わせた相応しいプレーをしてると思いがちだが、ボールの動きが速くなればなるほどボールの動きを見定めるという判断は予想的予測的になるのは、判断してからアクションを起こすと遅過ぎるから。

 

似たようなことは、何気ない日常の行動にも出てくる。

 

正しく見極め、正しく判断しようと思っているのに、肝心要は予想的予測的にならざるを得ないことは多い。

 

にも関わらず、そんな予想や予測を正しく見極め正しく判断したと思い込む。

 

球技のようにボールのスピードが速いと予測を誤った場合は即座に分かる、しかし生活やビジネスにおける予想や予測の外れは瞬時に判明するわけではないので、予想や予測の外れに気付きにくいし、そもそも自分が予想や予測で判断していたという自覚すらないだろう。

 

ボールのようにスピードが速いわけではない動きを予想予測することは、仮説を立てると言ったほうが伝わりやすいかもしれない。

 

仮説だと理解できてれば、正しいかもしれないが間違っているかもしれないという自覚があるが、仮説だという自覚がなく、仮説にも関わらず事実だと思い込んでしまうことが世間に増えてる。

 

 

警戒してるはずなのに詐欺が頻発し被害が後を絶たないことと無関係ではないはず。

 

 

おそらく同じようなことを言ってるのだろうなと感じる記事が流れていた。

 

 

なぜSNSでは「こんなにも話が噛み合わない」のか? その「思いがけない理由」  人間の「認知」が原因かもしれない

近年、インターネットにおける分断が問題になっています。すなわち、SNSやニュースサイトなど、自分の考えに合った情報や意見を見て自分の考えを確認し、他の考えや見方があることに気づかない、あるいは不寛容になることが起きています。

 

 

ITの進歩と普及に加えてコロナによる対面行動の減少は、予想や予測に大きな変化を及ぼしている。

 

対面しか方法がなかった時代には、目の前にいる人の表情や仕草などは喋ってる内容以上に雄弁だったはずだが、表情や仕草という情報は現代では減少傾向にあるので、その情報価値に気付けないことは増えてるだろう。

 

 

そういえば数年前に、ビジネスで成功したければ『錯覚させることが重要』と言われてた。

 

嘘や騙しはダメだが、相手が勝手に勘違いするのは積極的に利用した方が勝ちだとする考えで、これも人々の行動が予想的予測的であることを示していたのだろう。

 

 

わたしたちは、無意識のうちに予想し予測しながら生きているのだ。

まだキーワードで一喜一憂してる?

インターネットの普及でごく自然に行うようになったのが検索。

 

キーワードを入力して行うのが検索。

 

望んでる情報が得られるかどうかは別にして、キーワードとしてどんなワードを選択するかにはセンスや洞察力が現れてるはずだ、特に分からないことや未知のことを知ろうとすれば。

 

そういう意味では、検索は辞書を引くことと同じ面も含みながら全く違う世界も見せてくれる。

 

未来が予定調和的で、学校で勉強してそこそこの成績が取れればなんとなく未来が明るく見えてた頃と違って、現在取り沙汰される未来は果たしてその通りになるのか本当は疑問がある。

 

昭和の正解は、令和では正解ではないものも増え、中には明らかに間違いだったというものもある。

 

さらに、答えが違ってるというよりも、そもそも問いの立て方が間違ってるということもある。

 

これは、知りたいことを検索する場合のキーワードの選定にも通じるはず。

 

 

世代間のギャップもこの構造に似てるだろう、同じ時代を生きていても、時代のキーワードは必ずしも同じではないからだ。

 

政治経済よりも文化芸能でより顕著。

 

政治経済面では、どうしても過去の流れを引き摺らざるを得ないのに対し、文化芸能面では過去は過去、今は今として独立して評価されるから。

 

 

 

新しい建物ができたり道路の拡幅が行われると、街の景色が大きく様変わりしたことに気付くが、しばらくすると以前の状態が思い出せなくなる。

 

その変化をリアルタイムで見てなければ、変化前の様子は想像すらできないはず。

 

 

同じ景色や風景を見ていても、思い浮かぶキーワードがまるで違っていても不思議はない。

 

 

キーワードの選定だって多様化してるのだ。

 

検索する側と検索される側のキーワードを巡る攻防は、釣り師と魚の関係のようだ。

 

釣りに例えるならキーワードは餌や釣り針になるのだろうか。

 

餌の種類や針のサイズを間違うと釣れる魚も釣れなくなるが、釣れさえすれば魚の種類は関係ないのなら何かが釣れるかもしれない。

 

一方、最近では地球温暖化の影響で魚の生息域が変化してるという話もよく聞く。

 

漁獲量が減少してるのは、新たな生息域を探さず『昔はここでたくさん獲れたんだけどなぁ』と同じ場所で漁を繰り返してることも関係してるらしいと聞く。

 

 

キーワードに一喜一憂することは虚しいと気付くことは処世術として重要かもしれない。