違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

構文は個性!

2、3日前に話題になっていたのがラーメン評論家の1人語り。

 

独特な表現や言い回しは構文と皮肉られていた。

 

これを読んだ世間は『気持ち悪い構文』という反応以外に、『昔はそうだった』『こういう文体は懐かしい』という反応も少なくなかった。

 

 

 

構文と呼ばれるのは定型化されてるから。

 

代表例としておじさん構文が4つ挙げられてる。

 

 

 

 

定型化がワンパターン化すると、当初は際立って感じられた個性らしきものも、没個性化し独りよがりへと変化する。

 

 

しかし、ワンパターン化を真似る人が世間に多くなければ、結果個性として通用するのだ。

 

例えば。

 

 

 

政治家と構文は切っても切れない間柄のような気がする。

 

そういえば構文という意味では忘れてはいけない人物がいた。

 

 

 

現在言われるおじさん構文は、LINEの普及で顕在化したようだが、起源を遡ると、90年代半ば過ぎにガラケーが普及し始めメールが注目され始めた頃に、おじさんが飲み屋の女の子とやりとりする際に生まれた文化らしい。

 

しかし、使い慣れるにつれTPOの弁えが曖昧になり、使ってはいけない相手にも使い出し、やがてそれがキャラとして認知されたという現象で、当初は気持ち悪がられていたが、矛先が自分に向かなければ面白いという意味でギャグとしての存在価値を得るようになっていた、ようだ。

 

つまり、文章の構文にはキャラが色濃く現れるのだ。

 

それはしゃべりの癖と同じく、個人特定にも役立つくらいなのだ(独断)。

 

 

ブログを書いてる方の多くは、自分のキャラを活かしたいという思いと、ニュートラルでありたいが没個性は避けたいという思いの間で、その時々の自分の気分と相談しながらテーマや文章やことば遣いを選んでいるだろう。

 

そういうことを繰り返すうちに、自分では自覚しづらいだろうがきっと自分構文が出来上がっているはず。

 

 

わたしも、ブログを書き始めた頃、どういうことばを選んでもしっくり来ないことが多かったことを覚えている。

 

月日が流れて、テーマさえ見つかればルーティンワークのように書けるようになっている、これは自分構文ができた証なのだろう。

 

逆にいうと、ブログを継続できずに辞める方は、きっと自分構文を見つけきれなかったからかもしれない。

 

 

他人から認められる個性は欲しいが、変な色だと言われるのは嫌だと感じる人は多いだろう。

 

しかし、認知され始めの個性はいつも変な色なのだ。

 

その認知が肯定的になると、『その色もありだよね』となるのだ。

 

 

構文と個性の色は同じとまでは言えなくても、かなり似てることは間違いないだろう。

 

河野太郎氏の惨敗を水平思考

河野太郎氏の下馬評に比べての惨敗を見て思った話。

 

現在の政治家の考えをよく知ってる政治家や政治評論家の垂直思考な分析などとは違った、水平思考で考えた話で戯れ言みたいなものだ。

 

 

5年前トランプ大統領が誕生した際に、投票結果だけを見るなら必ずしもトランプ氏は大統領に選ばれたとは言えない結果だった。

 

しかし、大統領になれたのは選挙制度の盲点があったからだ。

 

総裁選にも盲点となりそうな党員票の存在があった。

 

今回の総裁選は直後の衆院選にも関わることだとすると世論にアピールすることが重要なはずで、党員票の動向は総裁選に留まらないと見られていた。

 

垂直思考による敗因の分析としては次のような記事がある。

 

誤算、自滅、不発…河野太郎氏惨敗 これだけの理由

自民党関係者は「会中心メンバーが河野さんでは動かなかった」と明かし「これは大誤算」と指摘。「党の支持率も回復傾向にある中、実力者らによる切り崩しも進んだ。選挙優先とはいえ、若手は逆らうリスクと天びんにかけた。元々、河野さんに恩があるわけでもない」と解説した。

 

 

河野太郎氏を支持していた小泉進次郎氏は次のように分析している。

 

小泉進次郎氏が見た総裁選と河野太郎氏敗北の要因

河野氏は世論調査でぶっちぎりの人気を誇り、さらに当初人気の2、3位であった石破茂氏、小泉氏と“小石河連合”を組んだことで総裁の椅子に最も近くにいたはずだ。しかしその効果は果たしてあったのか?こう質問されると小泉氏はこう語気を強めた。

 

「選挙の常識は応援する方を拒否しないというのは当然のこと。それにもかかわらず、あの人とくっつくからマイナスだとか、あの人とくっつくならやらないとか、それはすべてやらないための言い訳だと思います」

 

 

 

 

これらは、自民党の事情や背景をよく知ってるからこその垂直思考によって導かれた分析だが、別の視点で考えることもできるはずで、結果的にそれは水平思考になるはず。

 

 

わたしは、

 

①ニーズ

 

②景気

 

この二つの観点が頭に浮かんだ。

 

既に存在し顕在化してるニーズもあれば、これから掘り起こす必要があるニーズもある。

 

ニーズはたくさんあり得るのだが、その優先順位は都度コロコロ変わるし、ニーズへの対処は一つとは限らないので、何をどう取り上げるかはいちいち争点となる。

 

そうなると、争点の設定や対処法だけでなく展開の仕方や間やタイミングが重要で、つまるところ運を味方に出来るかどうかが決め手になる。

 

 

今回の総裁選には4名が立候補で、河野太郎氏の応援に回った石破茂氏や小泉進次郎氏は共に立候補してもおかしくない存在だった。

 

当初から、妙に選択肢が多過ぎるような気がしていた。

 

心や気持ちに余裕がある場合は選択肢が多いことは歓迎されるが、余裕がなければ選択肢が多いことは悩みを増やすことと同じになる。

 

どれを選んでも失敗はないと思えるような背景が選択肢が多い場合には求められる。

 

 

政治に関してだと、これは景気の良し悪しが大きく影響するはず。

 

 

好景気だと気持ちが大きくなり、

 

不景気だと気持ちが小さくなる。

 

気持ちが大きい時は一つのことに執着する必要はないと思いがちで多くの選択肢を求めるが、気持ちが小さい時は一つのことにすがろうとしたくなる。

 

そういう意味では、次期衆院選を見据えると多くの国民にとっては今は不景気の真っ只中であやふやな選択肢など求められてはいない。

 

 

 

下馬評で河野太郎氏が優勢だった時は、一番変化が期待できる存在だと映ったのだろうが、今は失敗が許されないタイミングだと再認識されると、大きく変化する可能性への期待よりも、堅実さへの期待の方が上回ったと考える方が妥当な気がする。

 

 

選択肢も厳選された少数が望ましかったとするなら、派手なイメージで展開してる選択肢ほど直前で弾かれる可能性が高まった結果だと感じられる。

 

概念(抽象)vs感覚(具体)を水平思考

次の記事を見て、Windows95の登場で嫌でもPCを覚えなければいけなくなった90年代を思い出した。

 

「ファイル」や「フォルダ」を理解できない学生が急増中

こうした学生がPC向けのソフトウェアを扱えないという点だけでなく「ディレクトリ構造を理解できない」という点にあります。PCを扱う場合、階層によってファイル・フォルダを整理するディレクトリ構造を理解しなければソフトウェアを扱うことすらままならないケースがほとんどですが、InstagramやTwitter、Facebook、YouTubeなどの主要なスマートフォンアプリケーションを扱う場合はディレクトリ構造の知識は不要です。

 

 

PCを初めて扱う者にはファイルやフォルダという概念はなかなかピンと来なくて、よく言われていたのが『どの引出しに何をしまうか』という例え話だった。

 

 

結局よく分からないまま数年経って、『どうしてこんな簡単なことが分からなかったのだろうか』と、気が付いたら分かるようになっていたことに気付いた。

 

 

昔はPCは避けて通れなかったが、現代は避けたければ避けられるし、そのことによる不都合は昔に比べたらずいぶん少ないはず。

 

 

 

このことを懐かしく感じていたら、ふと養老孟司先生のことばも思い出した。

 

人間は概念に価値を感じる生き物で、概念が重視される時疎かにされるのが感覚だ、と。

 

昔学生の頃、家庭教師や塾の先生をしてて簡単な方程式で躓く子どもを見ていて気付いたらしい。

 

2X=6

 

だから、

 

X=3

 

これが理解できない子どもは何に躓いているかというと、

 

X(この場合はエックス、念のため)という文字が、なぜ数字と同じなのか、このことが感覚的に気持ち悪くて、そこから先を受け入れられないらしい、ということに気付いたらしいのだ。

 

このような反応をする人は、証明問題で結論がA=Bとなるような場合にも強い戸惑いがあるらしいのだ。

 

AとBは文字として同じじゃないし、もし同じならBは最初からAで良いのではないかと考え、受け入れられなくなるらしいのだ。

 

 

人間社会というのは概念(法律やルールも概念)で動くので、概念を理解できなかったり違和感を感じる人には生き辛さがあるのだ。

 

養老孟司先生のような方が指摘してくれるからなるほどと優しい気持ちで受け入れられるが、身近にいたら優しい態度では接してない可能性が高い。

 

 

概念が大事な人間は、ことばの持つ意味でコミュニケーションを取る。

 

同じことを言えば誰が言っても意味は同じになるし、ならなければコミュニケーションが取れなくなる。

 

しかし、同じことばを使っても、一人ひとりの声は違う。

 

一人ひとりの声が全く違うことを敏感に感じ取れる人にとっては、感覚的には同じことを言ってるとは思えなくなるのだ。

 

それが正真正銘の絶対音感の持ち主。

 

世間で使われる絶対音感とは音楽的なセンスとして使われるので、日常のコミュニケーションには障害はないが、正真正銘の絶対音感の持ち主にとっては人間社会はとても生き辛いはず。

 

逆に、人間以外の動物は基本的には絶対音感の持ち主だから、音や声への反応は概念や意味に対して反応するわけではなく、個別に自分なりの感覚的な反応をしてるだけなのだ。

 

 

養老孟司先生は、概念が苦手な人は芸術の世界に活路を見出すことが多いと言っていたが、最近アートが注目されるのは多様性やダイバーシティという観点で取り上げられることが多いが、もしかすると人間が概念一辺倒から感覚も重視するようになってきたを意味してるのかもしれない。

 

概念と感覚は、前者が抽象を意味し後者が具体であるように対立関係なのだが、その関係性が変化してるのだとすれば意識しておきたい。

 

 

自分では水平思考のつもりだが成立してるだろうか?

ディープラーニングの正体

アナログ時代、日本だったら昭和をイメージすると分かりやすいだろう。

 

努力や頑張りや根性が成果を上げるために有効だった、というよりもコネや縁故に頼らない場合にはそれしかなかったと言えるだろう。

 

上を目指そうと思ったら、有能性を身に付ける必要があり、有能性を身に付けようと思ったら理解力を高める必要があった。

 

理解力を高めるためには勉強や修行が必要で、勉強や修行には努力や頑張りや根性が必要だった。

 

おそらく青春期や成長期を昭和で過ごした現在アラフィフ以上が持ってる価値観だ。

 

日本は高齢化社会であるため、社会の中枢部にはこのような価値観は今でも根強く残っている。

 

 

世界でAIが話題になるようになり始めた最初の頃はチェスや囲碁で人間とどちらが強いかなどという興味からの話題だった。

 

やがて自動運転が話題になり、AIスピーカーなど人間とのコミュニケーションも可能になってきた。

 

特に話題になったりするわけではないが、スマホカメラの制御を始め人間の側に熟練を要求することなく難易度の高い制御が生活の身近で実現するようになった。

 

そんなAIの進化の裏には、AIを学習させるためのディープラーニングという方法があり、そのことは世間に広く知られている。

 

AIとディープラーニングの関係が深く知られるようになった頃から、決定的にアナログ時代との違いが明らかになってきた。

 

 

アナログ時代に、人間にとって最も有効だとされた努力や頑張りや根性によって理解力や有能性を高めることは、デジタル時代においてはさほど有効ではないのだと明らかになってきた。

 

ディープラーニングで高度な学習をしたAIは高度な有能性を発揮するが、じゃあ自分がやってることを理解できているかというと理解はしてないのだ。

 

ディープラーニングの研究者やディープラーニングをビジネスにしてる側の人は、ディープラーニングを理解し支配しようと試みるだろうがおそらくそれは上手くいかない。

 

だからAIが暴走して戦争を起こしたり、人間を支配しようとするなどと妄想するのだ。

 

 

あまりにも簡単過ぎる括りかもしれないが、つまり、有能性を発揮するにあたって理解力は必ずしも必要ではなく、そのことは人間の活動にも及んでいるはずなのだ。

 

結果を出して有能だと評価されてる人の中には心の中で『本当のことは自分にも分からない』と思ってる人が少なくないだろう。

 

アナログ時代でも高度な熟練の技を持つ人は、その技を要領よく教えることが苦手で、技は見て盗めなどと言われていた。

 

今にして思うと、熟練者自身が自分でもよく分かってないのだ、ただこうすればできるという確かな実感しかなく、それは説明し難いのだ。

 

これこそがおそらくディープラーニングなのだ。

 

 

つまり、一つのことができたからといって、同じアプローチで全く別のことで再現性があるかと言われたらNoなのだ。

 

 

アナログ時代には、計画や設計やコンセプトというのは重要だったかもしれないが、デジタル時代にはピント外れ。

 

これまた太古から脈々と続く進化の歴史が参考になる。

 

人間の脳を始め、動物や鳥や昆虫その他多数の生き物が進化の過程で身に付けた高度な能力や特殊能力は意図されたり計画的に身に付けたものではなく、気が付いたらできるようになっていただけの設計なき適応に過ぎないのだ、つまりこれまたディープラーニングの一種なのだ。

 

 

デジタル時代に適応しようと思ったら、最初に設計や計画を立てることは回りくどいだけなのだ。

 

やりたいことをやりたいように創意工夫し続けることしかないのだ、人間自身にもディープラーニングが必要なのだ。

取材や本業と広告宣伝の境目

昔から雑誌などではよく見られた手法に取材記事の体を装った広告宣伝というのがある。

 

芸能人と経営者が対談するようなのが代表的であり古典的。

 

もちろん広告宣伝だから経営者の側がお金を払っているのだが、ボーッと見てる人には『有名人から取材を受けてすごいね』と見えてしまうのだ。

 

 

また、ドラマでお店をロケに使ってあげる、そうすれば広告宣伝効果が凄いからと、そのかわりにスタッフの飲食代を負担してくれと、後に法外な領収書が届けられたりするという話は昭和の後半からバブル景気の頃にはよく聞いたし週刊誌ネタになっていた。

 

広告宣伝効果があるという人質をチラつかせて身代金や見返りを求めることは業界では日常茶飯事なのだ。

 

 

中には、ゆすりたかりに近いものもあるようだ。

 

 

 

 

需要と供給の関係で供給が多過ぎる分野では、ただ頑張ったり努力するだけでは望む結果が得られないことが多い。

 

そういう時に、ライバルよりも露出が増えたり、目立つ話題を提供できるならお金を払ってでも欲しいというニーズが成立しやすくなる。

 

先入観では取材を受けると取材費が貰えると思いがちだが、お金を払ってでも取材を受けたいと望む経営者は多いだろう。

 

だから経営者は足下を見られる。

 

 

 

 

 

 

このようなツイートは検索すると他にも出てくる。

 

 

最近、テレビも雑誌もYouTubeもSNSも結局中身は広告宣伝が多い。

 

 

この辺までだったら然もありなんな見慣れた光景と言えるが、裾野はどんどん拡大中。

 

 

「これは詐欺医療である」東大の専門医が潜入調査で確かめた"悪徳クリニック"の許せない手口

詐欺クリニックの手順は大まかに以下のとおりだ。

①多くの書籍を出版して、それを宣伝する。

 

②来院した患者に「抗がん剤や放射線治療は聞かない」のウソを吹き込む。

 

③ウソを信じた患者に「これなら治る」とサプリを売る。

 

④悪化した患者には「今回は効かなくて残念だ」と伝える。

 

 

 

取材や本業の体を装った広告宣伝が世間を侵食してるのだ。

 

使って良かったものを勧めたいのはごく自然な人情だが、その人情も疑ってかかるくらいがちょうど良いだろう。

 

広告宣伝は底なし沼だ。

 

 

特に、決断を迫るものには要注意だ。

あなたは狙われている!

わたしには全くピンと来ない話題が流れていた。

 

 

ポケモンカード「もはや投機対象」 高額転売目的か 9/25(土)

「もはや遊ぶものではなく投機の対象。必ず高騰する」。24日午後、中区のカード専門店を訪れた男性客(38)は打ち明けた。

 

 

そういえばと思い出したのが、昔は何かを盗む場合の動機はそれ自体が欲しいからが多かったなということ。

 

しかし、最近はそのもの自体には関心はなくても、その市場価値に対して関心があれば、盗む動機になる。

 

この場合、動機を構成するためにはもう一つ条件が必要になる。

 

盗んだものを捌くための流通市場へのアクセスが容易であること。

 

映画やドラマでありがちな麻薬を盗んで一攫千金を狙うような計画を一般人が立てても、仮に盗めたとしても流通市場へのアクセスはほぼ不可能。

 

欲しいのが金銭の場合、直接お金を狙うのが一番だが、セキュリティの向上に加えてキャッシュレスも増えているので、狙われるのはセキュリティが不十分で現金が動くところが狙われるようになることが多いが、仮想通貨の盗難のようにデジタル盗難もきっと増えてるはず。

 

大事なことは、換金流動性がある市場があり、そこに匿名性やロンダリング性があることだ。

 

さらに、個人特定の個人情報も重要になる。

 

広い意味でのなりすましを悪い奴は狙う。

 

携帯電話や銀行口座や免許証などを使って、アカウントの盗難もこの類だ。

 

本人にとっては特別な価値があるとは思えないものが悪い奴には価値があるのだ。

 

 

質屋や古物商や金券ショップというリアルな店舗が、フリマアプリやネット上の転売にシフトしているのは、アナログからデジタルへのシフトを意味するだけでなく、ロンダリング方法のシフトでもあるのだ。

 

 

このようなことを考え始めると、『俺(わたし)なんか何も持ってないのに』と思っていても、密かにロックオンされてるかもしれないと警戒心を忘れてはいけないという気になってくる。

 

常時警戒することは慣れるまではストレスだろうが、ルーティンになるとストレスにはならなくなる。

お墓参りのススメ!

長い時間を経て変化する出来事を見てると、昔は社会に許容されていたことが時間を掛けて否定されるようになったとも言えるし、自主的にNoと判断するには一定の時間が掛かってしまうのかもと思ったりもする。

 

 

 

最後の牙城『笑ってはいけない』休止で終焉に向かう“痛みを伴う笑い”

昔から暴力的な要素が目の敵にされてきた歴史はあったんです。ただ、最近はその感覚のほうがより一般的になった。特に若い世代は、もう体罰で親に殴られることもない、先生が生徒を殴っちゃいけないというのが当たり前になっているので、暴力に対する嫌悪感も昔よりはるかに強い。そういう時代だから、どんどん暴力的な笑いは受け入れられなくなったのでしょうね」

 

 

このような出来事を考えていたら、上記の話題とは全く関係ない極めて個人的な話なのだが時間の流れで変化した自分の気持ちに改めて不思議を感じてる。

 

わたしは子供の頃から墓参りをした記憶がなかったし、物心ついて親が墓参りに行く時は、行くのが嫌なので留守番をしていた。

 

墓参りに不気味な思いを持っていたのだ。

 

そのまま大人になり、すっかりいい歳になった頃、仕事を通じて知り合った勉強会の後の飲み会で、墓参りをしない奴は仕事ができないという話になったことがある。

 

その場に居合わせたほとんどの人がその話に同意する中で、わたしは自分が墓参りをしたことがないとは言えなくなっていた。

 

なんとなく気になるようになったが、実際に墓参りをするようになったのは父が亡くなってから。

 

お墓はお化けが出る場所と思い込むと気持ち悪いが、亡くなった人に会える場所と思うと怖い場所ではなくなる。

 

それ以来、むしろこまめによく行くくらいになった。

 

 

なんであんなに墓参りを嫌がっていたのだろうかと不思議になる。

 

行くと、特に悪いことをしてるわけではないのだが懺悔ができたような、リセットできたような気がして気持ちが良いのだ、墓参りをする人はきっとこういう気持ちを求めて来るのだろうなと感じる。

 

 

 

当たり前といえば当たり前なのだが、お墓の前では嘘を吐かない自分になれる。

 

悪いことはしてないとはいえ、反省したりやり直したいことばかりが出てくる、そういうことが流れていくような気がして心が少し軽くなる。

 

 

心を軽くしたい人には、お墓参りはおススメ。