違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

生きることは危機管理

失敗すると反省するかもしれないが、上手く行った場合にはほぼ反省しない、これが凡人だ。

 

反省することは良いことで、反省しないことは良くないことだと思われがち。

 

しかし実際には、反省することを良いことにするのは、良い反省の仕方をした場合だけのはず。

 

失敗した人のほとんどは、失敗した理由を正しく把握できてないことが多いのはもちろんだとしても、上手く行った場合に上手く行った理由を把握できてない人も思ってるよりも多いはず。

 

失敗しても上手く行っても、その理由が分かってなければ、反省するにしても次に活かすにしても、手掛かりとなる材料や情報がないことになる。

 

 

つまり、役に立てるための材料や情報を持ち合わせてないと、向上や改善のための反省のベクトルは質には向かえず、量(≒時間)に向かいがちになる。

 

 

誰だって一度や二度は思ったことがあるだろう、タイムマシンがあって過去に戻れたらどうやり直すかと。

 

しかし、ライバルも皆んな思いを秘めてタイムマシンで戻って来てたらと想像すると、やっぱりタイムマシンがあったとしても過去に戻りたいとは思わない、と思い直す人も多いのではないだろうか。

 

 

それは反省が不十分であるからであり、経験や体験のフィードバックが不十分だから、やり直しても同じことの繰り返しになるだけだなとなんとなく分かるからだ。

 

 

成功体験と擬似関係にあるものに『何も被害を受けなかった』という経験がある。

 

この経験が何度も続くと、被害は自分には降りかからないと思いやすくなる。

 

 

世の中では日々さまざまな事件や事故が起きたくさんの被害者や犠牲者が生まれるが、そんな人々よりも多いのは大事にならずにやり過ごせる人。

 

怖い思いはしたかもしれないが、喉元過ぎれば熱さを忘れるという人の方が数の上では圧倒的に多いはず。

 

 

現在台風14号が接近中、大多数の日本人にとってはその恐怖はまだ具体的ではないタイミング。

 

さんざんさまざまなメディアや報道で注意喚起がされてるが、なんの備えも準備もしてない人は、驚くほど多いに違いない。

 

 

明日、明後日、どういう気持ちになってるのだろうか?

令和4年9月27日の国葬前に何かが起きるかも?

日本人の美学の一つに、『死者に鞭打たない』というのがある。

 

美学ではあるが、そのせいだろうか日本人は曖昧を好む。

 

 

しかし、暗殺後の安倍晋三は関係者が国葬ですべてを曖昧に葬り去ろうと予定調和に動き出し始めると、黙ってられないとばかりに未報道の悪行が暴かれ始めている。

 

 

拉致被害者2人の一時帰国拒否 安倍政権時、幕引き警戒 9/17(土)

日本政府が安倍政権当時の2014~15年ごろ、政府認定拉致被害者の田中実さん=失踪当時(28)=と、拉致の可能性を排除できないとしている金田龍光さん=同(26)=の「一時帰国」に関する提案を、北朝鮮から受けていたことが16日、分かった。

 

 

 

 

9月27日の国葬がタイムリミットであるかのように、色々なことが明らかになっている、それも明らかに意図的に隠蔽されていたであろうような事が。

 

 

国葬がタイムリミットになるのは、日本人のメンタリティを考えると、線引きされた期間を過ぎると後は忘却に転じるだけなので、仮に国葬後に更なる悪事やスキャンダルが発覚してももはや世論は盛り上がらないからだ。

 

 

幸か不幸かイギリスでエリザベス女王の国葬という本物の国葬が行われる事で、本物と偽物という好奇の目にも晒されることになった。

 

 

この調子で行くと、27日の国葬直前にとっておきの隠し玉が炸裂するかもしれない。

 

 

そうなると、国葬への出席は末代までの恥になるだろう。

 

 

曖昧が大好きな日本人の記憶にすら鮮明に残り続ける話になるはずだ。

 

 

 

と、妄想してしまう。

 

知りたいvs教えたい

知った後で、知る前のことを振り返ると、知らなかったんだなと気付く。

 

何を言ってるんだ?、と感じる人もいるだろう。

 

人間の話をしてるのだが、PCやスマホなどの設定をイメージする方が分かりやすいかもしれない。

 

 

PCやスマホなどの場合は、設定やデータの入力は人間でいうところの教えるの一部に相当する。

 

極端に言うと、教えるの一方通行だ、PCやスマホは決してその設定を望んでるわけでもなく、データを知りたがっているわけではないのだから。

 

しかし、人間の場合はちょっと違い、教えるは一方通行では終わらないのだ。

 

いつの頃からか、世間には教えたがる人が増え、そんな人たちは教え魔と呼ばれ迷惑がられるようになっている。

 

由来を探ってみたが何となくしか分からないが、次の記事によるとボウリング場やゴルフ場やゲームセンターに多く出没したようだ。

 

 

教え魔かもしれない 2021年4月7日

教え魔の心理はどのようなものなのでしょうか。社会心理学が専門で教えることの心理状態に詳しい新潟青陵大学の碓井真史教授は2つの側面を指摘しました。

 

(1)  教えるものを愛している

 

(2)教えていることで気持ちがよくなる

 

 

 

ナンパの一種かなと思えなくもないが、声をかけられた人のほとんどは不快感を感じていて、不快感を感じない場合は相手の外見や振る舞いに対して好意を感じられた場合という意味では、まさにナンパの反応なのだ。

 

 

教えたがるの原点には、『きっと相手は知りたがっているはず』という錯覚や思い込みがある。

 

 

私たちはなぜ仕事でも趣味や遊びでも勉強し続けるのか、それは上達したいからで、そのために知る必要があるから。

 

知るための最初の一歩は、知らないということを知ることからだ。

 

それに対して教え魔が教えているのは、『知らない』ではなく、『気持ち悪い』や『迷惑』になっているのだ。

 

実際の教え魔の多くは、相手の気持ちに鈍感な親切な人というケースが多いのだが、悪質なのは声をかけられる相手の心が弱っている場合。

 

心が弱ってる相手を専門に狙い撃ちするのが宗教やネットワークビジネス。

 

しかし、狙われてる人たちは、自分の心が弱っているから狙われているということを知らないし、気付けない。

 

心が弱ってる人は、権威や貫禄にも弱い。

 

そのことを本能的に察知する教え魔は権威や貫禄を演出しようとする。

 

現代だったら高級車や高級時計や札束の写真を使ってが多い。

 

 

権威や貫禄は、案外チープなものだと知っている人は知ってるが、知らない人は知らないままで覚えようとはしない。

 

 

 

 

教え魔だからと言って悪党とは限らないが、悪党はほぼ間違いなく教え魔だ。

 

自分が何を知りたいかも理解できない人は、悪意を持った教え魔が『あなたが知りたいのはこれですね』とアプローチされるとあっけなく虜になってしまうのだ。

 

『大事なことは教えない』という基本を知らない人は多い。

 

知らないということは恐ろしい。

 

 

需要と供給とコストパフォーマンス

対で使われセットで表現される概念の一つに需要と供給がある。

 

分かり切った話だし、そのことを考えたからといって今更新しい何かが得られるようにも思えないなと思っていたが、実際に考えると意外と奥深いというか趣深さが感じられた。

 

需要と供給は、別の表現をすると限りなく売買に近い。

 

漢字で表現するとことばの並び順が違うが、需要に対応するのが買で、供給に対応するのが売になる。

 

現実の生活を考えると、全ての人はどんな立場であろうと買う側の立場ではあるが、だからと言って必ずしも売る立場であるとは限らない。

 

何らかの仕事をしてる人ならば、その活動や行動が金銭的な評価に置き換わると言う意味では売っている立場なのだが、そういう自覚を持っているとは限らない。

 

売ってるという自覚がないまたは乏しいというケースに加えて、実際に何もしていないというケースも少なくないので、そういう人は供給ということを自分事としてイメージしづらいかもしれない、そういう人たちは供給側の立場の人の心理をどこまで理解できるだろうか?

 

 

需要と供給をセットで考える場合は、経済学と数学がセットになりがちだが、それ以上に大事なのが心理学になる。

 

需要と供給を事業として捉えると、売買の当事者は複雑化する。

 

供給側には資金調達役として金融機関や投資家が絡んでくるが、金融機関や投資家は需要側に金を売って利息や配当を得るのが目的という意味で売りの親玉になるが、それは需要側にはどうでもいい話。

 

一方で、需要側に手持ち資金が不足する場合は、やっぱり金融機関が登場する、この場合おもしろいのは、需要側がただ欲しいものを買うための場合は投資家は出てこない。

 

代わりに登場するのは、金融機関ですらない闇金を始めとするブラックな存在だ。

 

ただこのブラックな存在は、需要側が自分から近づくから接点ができるケースがほとんどになる。

 

何もないところに近づくのではなく、撒き餌が撒かれているからなのだが、分かりやすく言うと騙されるのだ。

 

 

需要と供給の間には、昔だったら問屋(今でもあるが弱体化している)、最近だったら転売屋が何重にも介在することもある。

 

いかがわしさがありながらも問屋や転売屋が成立するのは、現金取引だからで、つまり供給側が資金繰りで課題を抱えているからでもある、供給側にとっては誰が買うか、つまり需要がどこにあるかはどうでも良いというのが本音なので、現金化が早ければ誰でも良い。

 

だから足元を見られるのだが、問屋や転売屋には時代を読む高感度な目が必要になり、それが機能してれば需要は絶えないが、目が曇ってくるとあっという間に破綻する。

 

供給されるものには、食べ物でなくても、腐ったりしないものであっても、賞味期限があるので在庫はリスクになる。

 

供給側はできるだけ早く売り切る必要があるので、需要側の購買心理を煽ることと、財布の紐を緩ませるための価格設定という二つの心理戦に勝利しなければいけなくなる。

 

そのために発達したのがマーケティングだが、発達すればするほど陳腐化し、挙げ句の果てには騙す方が手っ取り早いとなり今がある。

 

 

供給側にとっては、ハイスペックな最新のもの以外は役に立たないという世の中になれば嫌でも買い替え需要が絶えなくなるが、世間の風潮は『これ以上のハイスペックには意味がない』と考える人も増えていることを考えると、そんな心理を読み取った上で落とし所をどこにするのかという高度な心理戦が展開されることになるはず。

 

 

価格は需要と供給が一致するところで決定されるという古典がもてはやされた頃の供給とは、おそらく闇雲に作れるから作っただけのもの。

 

需要側の心理には時代を経ても大きな変化ないように感じる、結局欲しいと思えなければ購買動機は弱いままになる。

 

それに対し現代の供給は、『これをこの価格で作れば売れるはず、売れて欲しいな』と需要側に歩み寄ってるものが大半のはず。

 

 

需要と供給と価格は、三位一体でコストパフォーマンスを形成してるのだ。

 

 

だとすれば、コストパフォーマンスは心理学の領域なのだ。

 

 

売れないものはコスパの魅力が薄いのだが、売れないからと言って価格を下げても喜ぶのはレベルの低い転売屋だけなのだが、そういう転売屋はそれに相応しい需要を持っているので世の中は回っていく。

 

 

 

『育ちは良いですか』と問われたら?

政界や芸能界はすっかり二世三世で溢れかえっている。

 

本来世襲である業界ならともかく、そうでない業界でも擬似世襲が目立つようになっている。

 

世襲に良い点があるとすると、身元が確実で、トラブルが起きた場合でも後処理や補償もリスクが小さい可能性が高いが、拗れた場合は大きく取り上げられるので火消しが不可能になるという大きなリスクも持ち合わせている。

 

二世三世の最大の良さが育ちの良さと業界のルールや人間関係を熟知してることだとすると、何の面白味もないがそのことが保険になってると考えると需要が高いことも理解できる、現代はそういう時代なのかもしれない。

 

元々は、育ちの良さが意味することとは家柄の良さだけで、それは親や先祖のおかげだけなのだが、そんな家柄が素晴らしい家系でも育ちの良さ格差が起きているかもしれない。

 

 

政治の世界の世襲は地盤・看板・鞄が受け継がれる。

 

Wikipediaでは三つのばんという意味で三バンとして取り上げられている。

 

分かりづらいのが鞄だが、これは資金のことで、昔は政治家が持ってるカバンの中には工作資金が詰め込まれていたからだろう。

 

 

一見世襲とは縁がなさそうな一般人の場合でも、この三バン的な価値観が現在では感じられる。

 

抽象的だが、三つ併せて『育ちが良さそう』がそれに当たるような気がする。

 

もちろん大前提として実力が大事というのは問われるが、それは一定水準をクリアすればそれ以上は問われないというような意味でだ。

 

その程度の実力があれば、育ちが勝負の決め手になるのだ。

 

育ちの良さには性格の良さは必須で、育ちが良くて性格も良ければ残念ながら外見も悪くないのだ。

 

わざわざ名前は上げないが、家柄が良いはずの代々政治家の家系や世襲の伝統芸能の世界にも下品な人は少なくないのを見ると、育ちの良さは家柄だけでは決定されないのだ。

 

実力のみでそれなりに成功を獲得していたはずのスポーツ選手が私生活の乱れから大きく評価を落とすことが最近少なくないが、これらも十把一絡げに『育ちが悪いから一流になりきれない』で片付けられそうだ。

 

だからこそプロ野球界では大谷翔平さんがダントツで光り輝くのだ。

 

実力の世界でも、実力があるだけでは賞賛は付いて来ない時代なのだ。

 

 

三つ子の魂百までという諺を信じるならば、育ちの良さは親の育て方に大きく依存するはず。

 

自分のようになれという思いを込めて育てられるのか、あるいは自分のようになるなという思いが込められるのかはともかくとして。

 

そんな育てられ方と成長に伴う自我の合わせ技の結果が、自分がよく知ってるはずの自分自身を作り上げるのだ。

 

『育ちは良かったのか?』と問われるまでもなく答えは一目瞭然のはず。

 

 

改めて考えると、誇らし気な気持ちになれる人と、少しホッとできる人と、落ち込んでしまう人にはっきり分かれるはずだ。

 

 

落ち込んでしまう人が多いことは言うまでもないだろう。

 

メガソーラー、元を辿ればゴルフ場、両者を接着するのは産業廃棄物

 

 

この記事の写真を見ながら思い出したのは、熱海での土石流事故。

 

発生は2021年7月なのに随分前のことのように感じる。

 

熱海の土石流は違法に盛り土された産廃物が直接の原因とされたが、誘因の一つとして近隣のメガソーラーが噂されたことを覚えている。

 

土砂崩れが起きた山やメガソーラーが設置された山や丘をを上空から見ると、おそらく多くの人がゴルフ場を感じるはず。

 

ゴルフ場にするつもりで樹木の伐採が変な形で行われた後で開発が頓挫し放置されたようなものから、経営が上手くいかなくなったゴルフ場の跡地利用がメガソーラーになっているという意味では、他に用途がない低価格の居抜き物件となるはず。

 

お金さえ入ってくるならいくらでもいいから買って欲しいのという所有者や管理者は少なくないはず。

 

 

高度成長期からバブル期にかけて日本の山はゴルフ場開発が進み、またそのゴルフ場の稼働率を高く維持できるくらいゴルフ人口も増えたが、今となっては30年以上前の話で、全国の山に負の遺産となったのだ。

 

 

新規に開発されるゴルフ場は少ないが、ゴルフ場開発のノウハウを持った事業者だって生きて行かねばならない、そんな思いとメガソーラー事業者の思惑の一致は自然な流れだったはず。

 

 

土砂崩れが起きた山の上空からの映像を見ると、ゴルフ場やメガソーラーと結びついてしまうし、その結びつきを強めてるのが産業廃棄物なのだ。

 

 

日本では、太陽光発電はエネルギー問題とは位置付けられず、単に利権が絡む開発行為というだけの位置付けから抜けきれないようだが、それを喜んでるのは既存の電力会社だけ。

 

 

小池都知事の新規住宅に太陽光発電を義務付けるという政策は、風穴を開ける可能性という意味では興味深い。

地獄の沙汰も金次第?

世の中には正論を求める人と、その反対を求める人がいる。

 

反対を求める人が好むのがいわゆる炎上系。

 

正論への反応が理性的なのに対し、炎上系への反応は感情的であり衝動的。

 

では、同じ内容を理性的に表現した場合と炎上的に表現した場合の違いをデータで示すことはできるのか?

 

できるとすれば試行錯誤を積み重ねたメディアだけだろうし、そのデータには有効期間というか賞味期限があることも掴み取るだろう。

 

だからこそメディアと炎上ネタは切っても切れなくなる。

 

ついでに言うと、理性的とは言えない炎上系の供給がなぜ絶えないかというと深層心理に持ってる不平不満を煽る効果が大きいからで、それは極論すると儲かるからなのだが、そのトレードオフとして需要側からの蔑みを受けることになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「限りなく廃刊に近い休刊」 新潮45を追い込んだ怒り  2018年9月26日

25日夜に報道陣の取材に応じた新潮社の伊藤幸人・広報担当役員は、「限りなく廃刊に近い休刊。部数低迷で編集上の無理が生じ、十分な原稿チェックができなかった」と述べた。一方、「(自民党杉田水脈(みお)衆院議員の寄稿を掲載した)8月号だけでは休刊の決定はしていない。10月号に問題があると考えている」とした。

 

 

情報発信の術が限定的だった時代には、炎上させることはメディアにしか出来なかったから、炎上という表現すらなかった、替わりにウソやデマと呼ばれていた。

 

しかし、時が流れ現代になり誰でも情報を発信できるようになると炎上はメディアだけの特権ではなくなった。

 

情報強者だったメディアが大衆を敵に回しすぎると逆襲に遭うようになったのだ。

 

結果、ことばや情報の応酬では勝負がつかなくなることが増えた。

 

 

そして、舞台の一部は訴訟の場になったのだ。

 

一昔前だと、揉め事や争いごとに弁護士が介入すると、弁護士に依頼した方が勝っていた、相手側がそれに対抗できないからだ。

 

弁護士に依頼するというハードルはとても高かったが、近年の弁護士余りで弁護士が安泰な職業ではなくなると、仕事を選んでられない弁護士は訴訟に出来ることには簡単に首を突っ込むようになった。

 

その結果、炎上に対抗する手段として金銭さえあれば簡単に提起できる民事訴訟が増えた。

 

民事訴訟自体が炎上ネタになりがちだが、法律が相手なのでトーンは下がりがちで迫力に欠け、炎上合戦に参加を躊躇う人も増えている。

 

スラップ訴訟で検索するとたくさん出てくる。

 

 

思えば、ネットを介しての情報発信が限りなく低コストになったことで活発になったのが各種の炎上系活動だが、それに対抗するためにコストを掛けて訴訟という武器を手に入れると簡単に鎮火するという事実も知れ渡った。

 

これによって、弱者が不用意に強者に牙を向けるということは相手を選ぶ必要があることが認知された。

 

このことが原因だろうが、強者に噛み付くよりも、強者のペットになった方が幸せだと思う人が増えてるように感じられる。

 

そして逆に今更ながら、簡単に提起できる民事訴訟の威力に強者の側が気付き始め、それを武器にしないのは損だと理解したようでさえある。

 

スラップ訴訟は、法律を味方に付ける行為なのか、それとも金で解決する行為なのか?

 

現実にはその両方なのだが、意識は金寄りだろう。

 

おそらく金次第で弁護士の働き具合が変化するはず。

 

 

強者は強者なりに、弱者は弱者なりに、地獄の沙汰も金次第だと気付いたようだが、そうなると、時代はきっと金ではどうしようもないことに価値を求めるようになるはずだ。