違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

お気に入りの心理学

動機があるところには心理学がある。

 

人が何かをしよう、したい(したくない)と思う時には必ず動機が存在する。

 

積極的であろうが消極的だろうが何となくであろうが。

 

世の中にはさまざまな心理学があり、そのどれもが正しいかもしれないことで人は迷うことになる。

 

そうすると、迷った時の心理学などが登場する。

 

人が心理学に求めるのは自己分析のためであり、他人分析のためだ。

 

自己や他人の心理を知ることで社会の心理を知りたいとも思うようになることも多い。

 

心理学的分析に大きく影響するのが、自己であれ他人であれ、環境であり体験や経験だ。

 

環境には、過ごした時代や時間や場所や地域、人間関係、そして接した情報及びそのタイミングなどが含まれる。

 

 

人は自分自身のことが一番分かってない、などと言われるが、自分のことは自分が一番分かっていると思いがち。

 

心理学がおもしろいと感じるのは、このようなギャップに気づくためのヒントが多いからだ。

 

心理学にも流行がある。

 

多くの人が一斉に〇〇心理学に傾倒することがあり関連書籍がベストセラーになり読むと、必ずなるほどと共感できる記述に出会ったりする。

 

難解さが人を魅了する場合もあれば、分かりやすさに惹かれる場合もある。

 

 

日々伝わるニュースにはさまざまあり、それらに対して喜怒哀楽な反応をするが、その反応は全て心理学の大好物だ。

 

 

お気に入りの心理学を持つ人がいる一方で、どれもしっくりこないという人もいるだろう。

 

お気に入りの心理学を持つ人は、気に入らない心理学をいくつも知った結果辿り着いたかもしれないし、たった一つの出会いに洗脳されてる場合もあるだろう。

 

 

お気に入りの心理学を持ってない人は、この世にお気に入りになれる心理学があるということに気付いていないとも言える。

 

 

心が安定してる人はきっとお気に入りの心理学と出会っているだろう。

キーワードからテキストへ

やっぱり革命だったのだ。

 

ChatGPTが幕開けした生成AIというジャンルは是非を巡った議論も呼んでるが、そんなことをしてたらただの時代遅れになるのは確実のようだ。

 

Googleの検索のあり方もガラッと変わる可能性が大らしい。

 

シンプルに言い切ると、キーワード検索からテキスト検索になるのだ。

 

 

従来のキーワード検索からテキスト検索への移行が進むとChatGPTを使った人だと分かりやすいだろうが、検索順位という概念が崩れる。

 

実際にどうなるかは今のところ不明だし検索順位という概念をGoogleが消すとは思えないが、検索で上位にヒットしてたことで得をしてた企業や個人ほど戦々恐々にならざるを得なくなる。

 

だからと言って下剋上が起きるかというと、その可能性はゼロに近いかもしれない。

 

Googleが検索市場の覇者となって20年、Googleのケツにも火はついているのだ。

 

 

そしてなにより大事なことは、これは考え方次第ではチャンスなのだということ。

 

 

〜〜少し余談〜〜

 

この20年のネット社会ではSearch Engine Optimization(以下SEO、意味は検索エンジン最適化)がコンテンツの質よりも重要視されてるというジレンマが常にあった。

 

SEOの基本的な概念は、どのキーワードでどれだけの反応が得られるかで、心理学用語のモデリングと似ている。

 

オリジナルが大事だと言いつつ、お手本になりそうな誰かの模倣をすることの方が効率的だと判断することが主流だった。

 

模倣には大きく二種類ある。

 

一つは、好きで憧れてお手本になるからと積極的に行う模倣。

 

もう一つは、そのことの是非など考えずに世間にはやってる人がいて何のお咎めも受けてなさそうに見えることや、非難されながらも上手いことやってるように見える人がいるからとついついする模倣。

 

 

SEOは後者の模倣が結構罷り通っていることに苦々しさを感じる人は多いはず。

 

〜〜余談ここまで〜〜

 

 

つまり、これまでのSEOのあり方に不満を感じていた人や興味を持つすべての人に平等な機会が訪れるのかもしれないのだ。

 

ガラガラポンのリセットだとすると、積み上げたキャリアが自己満足だとしても資産防衛意識が芽生えるかもしれない。

 

 

しかし、それよりももっと高い可能性でSEO対策など吹き飛ばされるかもしれないのだ。

 

 

誰も答えを知らないことがこれから始まるとすると、新しい仮説を自分で立て試行錯誤に着手することは見返りを期待しなければ楽しい遊びになるのだ。

 

頑張ったからといって結果が約束されたり保証されるわけではないし、しばらく悪戦苦闘した後に『このくらいにしといてやる』という捨てゼリフとともにやめてしまう人が増えるかもしれないが。

 

 

今朝Twitterのトレンドに『生成AI』とあり、以下のサイトを見て思った話。

 

Supercharging Search with generative AI

『小さな成功体験』というブーム?

フィルターバブルだろうか?

 

『小さな成功体験』といいうワードを目にすることが増えた。

 

このワードの後には『を続けよう』が続くことが多い。

 

最初は温故知新的な懐かしさを感じたが、やたらと目にするような気がするのでTwitterで『小さな成功体験』と検索するとやはりつぶやいてる人が多い。

 

GoogleTrendsで検索可能な2004年以降で調べると、成功体験の主要テーマは就活転職ダイエットだった。

 

では最近5年だとどうなるかというと、転職やダイエットに加えてカツラやウィッグが出てくるが、成功体験自体が漠然としたものになってるように感じられた。

 

では、直近1年だとどうなるか?

 

成功体験はより一層漠然としたものに感じられるようになっていた。

 

関連してるワードやトピックの中に初めて聞く名前があった。

 

アルバート・バンデューラ

 

カナダの心理学者で2021年に他界されてるが、この方が提唱していた「自己効力感」が注目されていたようなのだ。

 

 

自己肯定感はよく聞くが自己効力感は初めてだ。

 

 

ウィキペディアでは自己効力感を生み出す先行要因として6つのことを挙げている。

 

 

  1. 達成経験(最も重要な要因で、自分自身が何かを達成したり、成功したりした経験)

 

  1. 代理経験(自分以外の他人が何かを達成したり成功したりすることを観察すること)

 

  1. 言語的説得(自分に能力があることを言語的に説明されること、言語的な励まし)

 

  1. 生理的情緒的高揚(酒などの薬物やその他の要因について気分が高揚すること)

 

  1. 想像的体験(自己や他者の成功経験を想像すること)-O.マダックスによる

 

  1. 承認(他人から認められること)

 

 

 

 

これら6つが全部揃ってなのか、この中の一つでもなのかでハードルの高さは変わるが、これらが成功体験に関わる要素とされてるのだ。

 

そして、この話がモチベーションを煽りたい人や煽られたい人の間で一種のブームになっているのだろう。

 

6つの要素の2番目の代理経験や5番目の想像的体験は洗脳など人心掌握ととても相性が良さそうだ。

 

 

 

使い捨てにされる詐欺の現場での実行犯はきっと指示役や黒幕から自己効力感を煽られているに違いない。

 

ただ単に脅されたからというだけでなく、きっとやれる、きっと行ける、と思い込むから実行するのだ。

 

 

世の中には、実話以外の想像の産物である成功体験が溢れている。

 

成功体験は良いことや善行の連続で達成されたものばかりではないが、そういうことも全部ひっくるめて成功体験になるのが物語だ。

 

人は人生経験を積むほどに、綺麗事では生きていけないことも理解するようになるが、綺麗事がない世界が地獄であることも理解するようになる。

 

 

自覚の有無に関わらず人間は成功体験を求める生き物なのだ。

『不快の排除』が最優先

次の記事を見て反対語や反対概念は辞書とは違う意味に変わることが珍しくないなと思った。

 

大食いはオワコン?テレ東番組トレンド入りも批判ズラリ 不満は「もったいない」だけじゃない

今の時代に放送したらコンプラ的にアウトな昔の番組達が消えていく中で、大食い番組だけはまだ残ってるのが正直謎

 

 

記事とは直接繋がらないかもしれないが、高度成長が実感できていた昭和の頃だと目標や好きや楽しいを追求したければ別のことに関して(勉強や仕事など)努力やガマンがセットで必要とされていて、それは当然だと受け止められていた。

 

 

しかし、現代ではセットで要求される努力やガマンは『〇〇ハラスメント』と呼ばれるようになり、表立って要求できなくなりつつある。

 

だからと言って要求自体が消えるわけではないから忖度が注目されるようになる。

 

中国で生まれた忖度は日本には平安時代には伝わっているとされている。

 

 

しかし、多くの日本人にとっては比較的最近馴染んだ言葉で。Google Trendsで見ると2017年の3月が境目だ。

 

 

 

 

この時何があったかというと、

 

 

 

 

忖度は無言の圧力によって起こるものとはいえ形式的には自己判断の自己責任の行動になる。

 

 

 

昭和の頃の、努力やガマンがセットで要求されたことが世間に受け容れられたのは、ひとえに見返りが確実だったからだが、セットで要求される努力やガマンは必ずしも見返りが確実とはいえない時代に入ると、努力やガマンの要求はハラスメントとしか映らなくなる。

 

目標や楽しいや気持ち良いを積極的に追求する時代には、努力やガマンはセットで通用したが、現代では追求されてるのは『不快の排除』になっている。

 

個人レベルでは多くの人が感じているだろうが、社会全体でとなるとまだまだ声は小さいので影響力があるとはいえ中途半端なレベルに留まっているので政治を動かすレベルには至ってない。

 

 

冒頭の記事を見て、これまではあまり思うことがなかったことが考えとして浮かんできた。

 

 

個人レベルでは確実に『嫌なことはしたくない』『嫌な人とは付き合いたくない』、『どうせ見返りは大したことないから』と考える人は増えこそすれ減ることは当分無いのだ。

 

コロナ禍は確実に追い風に作用してるはず。

 

 

このような状態は、ある種の人には日本の衰退や崩壊とリンクして見えるかもしれないが、通過点として確実に必要なプロセスが始まったとも言えるのだ。

 

キーパーソンを求めて

誰にだっているのだろうかキーパーソンは?

 

当てにしてる人や頼りにしてる人であり信頼できそうな人。

 

そして結果を出せる人であり結果を出させてくれる人。

 

 

かつてのバブル景気の日本では政治や経済のキーパーソンが占い師だと言われていた時期がある。

 

そして最近では宗教家がキーパーソンだと明るみに出る事件が目立つ。

 

大きな世間の流れとしては衰退してるだけに見えても、キーパーソンの神通力はキーパーソンを取り巻く環境ではまだ生きているのだ。

 

 

努力や頑張りが実を結ぶか否かは、キーパーソンを上手く巻き込めれているかが分かれ目だったりすることは世間には多い。

 

キーパーソンが雲の上の人ならば直接繋がるのは至難の業だ。

 

だから何段階も仲介者がいたりする。

 

キーパーソンなりのセキュリティチェックであるとともに、そうすることで神通力を担保してるのだ。

 

昭和の大物芸能人はプライベートを明かさないことでタレントとしての価値を守ったように。

 

 

だから、本当のキーパーソンと自分の間で仲介者のような役割をする人をキーパーソンと呼ぶ場合もあるだろう。

 

 

政治家とコネクションを作りたい場合のキーパーソンは秘書だろうし大物芸能人と知り合いになるきっかけとしてはマネージャーの存在はキーパーソンそのものだろうし、野心や下心を満たそうと思うなら紹介や仲介の労を求めることが何より効率的なのだ。

 

結果、秘書やマネージャーや仲介者が権力者もどきになる場合も少なくない。

 

こういう構図は、どんな関係性であっても成り立ちそうな気がしてくる。

 

ロシアが起こした戦争はプーチンが起こしたとされるが、プーチンにもキーパーソンがいるとしたらそれは誰だろうか?、などと。

 

 

 

身近な事例で言うと、詐欺における黒幕や指示役とは?、と考えていて、これらもキーパーソンと括れるなと気付く。

 

しかし、一連の詐欺事件におけるキーパーソンとその取り巻きの関係性は恐怖で縛ることであり、使い捨て的な利用に過ぎず、信頼関係など最初から皆無という点は従来と大きく違う点だ。

 

 

しかし、現実社会では誰がキーパーソンなのかが簡単には分からないことが多い。

 

だから、当たれば儲け物とばかりに人と知り合うことに夢中になる人は多い。

 

死語とも言われる人脈や人脈づくりに対するエネルギーは、フォロワーやいいねの数を競うことに向けられてると思うと、概念は死んでないことが分かる。

 

 

コロナを気にしなくて良くなったことで対面の場はますます増えることだろう。

 

サラリーマンの飲み会はコロナ禍で習慣そのものが消えたということも少なくないだろうが、キーパーソン探しや人脈づくりは復活してもおかしくないかもしれない。

 

結果を求める野心や下心の向かい先はそう多くはないのだから。

予定調和の反対語は一期一会

ゲストで登場した元プロ野球選手を紹介する昭和の映像が流れていた。

 

昔はこんな映像に白熱し一喜一憂していたなと思いながら、こんなに不鮮明な映像だったなんて当時は思わなかったなということも思っていた。

 

テレビはブラウン管で当時の大型テレビですら今の半分のサイズだった。

 

今の大型テレビをその当時にタイムマシンで運んだら、きっと昭和の人は驚くはずだ。

 

 

たまたま比較できたことと、そういう気分だったこともあって気付いたのだろう。

 

 

できないと思っていたことができるようになるというのはテクノロジーの発展途上にはよくあることであり、できるようになること自体が感動でもある。

 

テレビならば、コンテンツの良し悪しや完成度を問う以前に、テレビで見れるというだけのことがエンタメとして成立していたのだ。

 

 

翻って現代、どうやって実現するかはともかく、想像できる大抵のことは遅かれ早かれ何でも実現してもおかしくないと心のどこかで思っている人は大勢いるだろう。

 

そういう思いは不思議なことに実現しても大きな感動は生まない。

 

きっと予定調和なのだろう。

 

 

半世紀前初めて人類が月面に着陸した際のロケットアポロ11号に搭載されていたコンピューターは今のスマホの最安価格のスペックよりもはるかに低いというものだった。

 

しかし現代でも月に着陸することには高いハードルが存在しているという意味では予定調和を達成できてないが、成功しても予定調和しか感じないかもしれない。

 

 

感動には一期一会が付きものだと思っている。

 

何度経験してもその都度何かしらの一期一会がそこに感じられればきっと感動できるはず。

 

しかし、『ああ、またか』と感じてしまうとそこに一期一会は無いので本当は初めてでも予定調和しか感じないだろう。

 

 

辞書的な意味としての一期一会が大事なのではない。

 

何に一期一会を感じるかは人それぞれだろう。

 

一期一会を一生に一度と思い込むとハードルを高めてしまうが、気の持ちよう次第で昨日と今日は違うし、明日は初めての今日になるのだ。

 

本気でそう思える人だとこんな気持ちは初めてだと何度も思える。

世の中は中央値や平均値が回している

令和2年の文科省の学校保健統計調査に基くものだと思われる日本人17歳の身長と体重の分布図。

 

 

 

 

グラフの出典は下記サイトから

https://graphic-data.com/page/sport/001

 

 

 

本当は日本人全体での分布図がないかと探していたが、17歳であっても分布のイメージは十分伝わる。

 

詳細な数字に意味があるというよりも分布のバラつき具合のイメージが伝わることが重要だから。

 

年齢が上がっても身長に関しては17歳のデータから大きな変化はないだろうが、体重に関しては右側に分布の幅が広がってるはずだが極端には違わないかもしれない。

 

 

グラフを見てると平均値と中央値と最多層という3つの注目ポイントがあるという点に誰でも気付くだろう。

 

グラフが年収を示すものであっても、分布の形状は違うとしても、分布のあり様の注目点は似てるはず。

 

大規模に分布を知ることができれば、それが何に関してであってもやはり同様のことが言えるはず。

 

 

ついでに言うと、勉強や受験での偏差値に毒されてる人だとグラフの右側に行きたがるが、ほとんどの人にとってはそれは叶わぬ夢であることもよく分かるだろうし、身長や体重が右に行けば行くほど良いとは誰も思わないはずだし、そもそも自分一人の努力や頑張りではどうしようもないということも分かる。

 

自分一人でどうにでもなる絶対性ではなく、全体の中でどこに位置するかという相対性は他人次第でもあるからだ。

 

 

小学校から中学校、高校大学と進学するほどに自分が中央値や平均値あるいは偏差値50に近づいていくのはある意味当然で、社会に出たり現代のようにネットやSNSで桁外れの上位に位置する存在が身近に感じられるようになると自分が中央値や平均値を下回り偏差値は50に満たない存在だと気付かされることも少なくなくなる。

 

 

十で神童十五で才子二十過ぎれば只の人

 

 

Twitterやネットを見てると、社会に出て只の人になってるにも関わらず神童と呼ばれていた頃のことが忘れられない人が多いことに気付く。

 

 

逆を考えてみよう。

 

商売やビジネスをしてる人でセンスや才能がある人だと、社会のどの位置に分布してる人を掴めれば自分の商売やビジネスに効果的かを考えるだろう。

 

そういう層にアプローチすることが嫌でさえなければ自然と追い風に乗れるだろう。

 

アパレルのフリーサイズ商品が身長や体重の分布におけるどの層を狙ってのことかも分かるし、ビッグサイズに特化した商品展開というのが身長や体重に関しての高偏差値を対象にしてることも分かってくる。

 

中央値や平均値がフリーサイズなら、そこから外れたのがビッグサイズやスモールサイズで、市場規模も違えばライバルとの競争の規模もまるで違ってくる。

 

 

こういうことは良し悪しの話として捉えることは馴染まない。

 

 

只の人になった昔の神童は、すでに中央値や平均値の人になっているがそのことを認められずに自分の不遇を嘆くだけ。

 

しかし、ずっと中央値や平均値の枠から外れずに生きてる人は充実感を感じてるはず。

 

世の中をリードするのは高偏差値なイノベーションだと思いがちだが、実は中央値や平均値が回しているのだ。