違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

騒音や雑音をバカにしてはいけない

静かに振る舞うことが重要なマナーという場がある。

 

分かりやすい施設が図書館や病院。

 

普通の声で話してる小さな子供を連れたお母さんが恐縮してる姿なんかは全然許容範囲なのだが、ある程度以上の年齢の者がさまざまな音を無神経なレベルで立てていると腹が立つ。

 

音に対する反応にはかなり個性が現れる。

 

集中したい作業をする場合であっても適度な生活音がある方が作業が捗る場合と、捗るためには静粛性を必要とする場合がある。

 

この反応は誰でもが同じではない。

 

他人が立てる音が気になる人は、自分が立てる音は極力立てないようにと気を使うだろう、時には失敗があるにせよ。

 

無神経な音を立てる人はおそらく自分が立ててる音が気にならないもしくは気にすることができないのだろう。

 

どのような種類の音であれ集中力が高い人だと気にならないし気にしないかもしれないので、集中してる人は自分が出してる音に思いが行かないだろうし、他人の音が気になる人はそもそも自分がやることに集中できてないからとも言える。

 

しかし、音が気にならないことが耳の機能に起因してるとすれば認知症かもしれないのだ。

 

認知症をdisろうとする話ではない。

 

今朝寝起きで聞いたラジオで、大規模な調査で認知症の最大リスクが難聴であるということが確定的になったのが昨年からだと言っていた、これは耳鼻科業界に激震を与えたとも言っていた。

 

 

難聴は単なる老化ではなく、年月を掛けてさまざまな要因が積み重なった結果起きるもののようだが、聞こえない聞こえにくいは重大な影響を及ぼすのだ。

 

次の図はTwitterで拾った。

 

不明.png

 

 

忍び寄る危険を察知する場合、察知するのは気配。

 

人間が収集する情報の8割は目から入ると言われるが、気配を察するような場合は目からよりも耳や鼻からの方がものをいう。

 

難聴になると危険を察知するのが遅くなる、または察知できない、そうなると大変だ。

 

難聴だから騒音や雑音が気にならなくて良いという人を知ってるが、騒音や雑音に晒され続けた結果が難聴だとすると、騒音や雑音を上手く避けるというのも立派なリスクマネジメントだと分かる。

 

騒音や雑音は音量の大きさも問題になるが、TPOによってはただ聞こえるというだけでも騒ぎになることがあるが、そこに難聴というキーワードを絡めることは少ないが実は密接に関係してるかもしれない。

 

 

すべては目線の違いから

当初想定してないことが後に重大な意味を持つと分かった時に使われる表現が伏線。

 

伏線は本来後から気付くものなのだが、ストーリーテリングの世界では事前に想定して張るもの。

 

ストーリーテリングの世界では張られた伏線が意味を持つことを回収と表現する。

 

伏線が上手く演出された物語は味わいを深めてくれる。

 

漫才で言うところの上手いフリとオチのセットのようなものだ。

 

上手く決まると、見てる側や読んでる側も気持ち良いがおそらく仕掛けた側の方がより気持ち良いはず。

 

決まらなかった(すべった)場合の落胆は仕掛けた側の方が大きいのはもちろんだが、見たり読んだりする側は伏線やフリやオチがあったことにすら気付かない場合もあるだろう。

 

 

鑑賞者が慣れてくると、伏線やフリやオチを見破ることに快感を感じるようになる。

 

それが繰り返されると、やがて鑑賞者は伏線やフリやオチの設定を批評するようになる。

 

 

自分の意見や考えを表現する場に事欠かない現代では、大衆は評論家になる。

 

 

評論家目線で語る時の自分は評論家なのかそれとも自分なのか?

 

 

日本文化は恥の文化と言われることがある。

 

昭和平成令和と時の流れと共に恥の文化は弱まってるように感じるが。

 

恥ずかしいという感覚は、自分自身を主観で見るのではなく他人の目線で見るから感じる感覚かもしれない。

 

さらに神様目線あるいは鳥の目目線、場合によっては虫の目目線になるのが俯瞰だ。

 

 

自分が感じることだからすべては主観かもしれないが、そこにはさまざまな目線からの情報が入り込む。

伸びたい人は勝ちには真剣ではない

勉強や研究などの場合、勝ちたければ(勝ちたいという表現が相応しいかは別として)自分の強みを強化し伸ばすことが最善。

 

一方でスポーツの試合やビジネスにおけるライバルとの競争では、自分の強みを活かすことも重要だがそれ以上に有効なのは相手の弱点を攻めること。

 

明らかな弱点があれば自覚し対処するだろうが、負けて初めて弱点が認識できるという場合も少なくないはず。

 

 

〈iPhoneでも、テスラのEVでも〉世界のハッキング大会で次々に発覚、プログラムの脆弱性を見つけられない日本は蚊帳の外

中国国家標準化管理委員会(SAC)の「情報セキュリティ技術サイバーセキュリティ脆弱性管理仕様書」には、「脆弱性」は戦略的資源であると明記されている。

 

 

脆弱性とはシステムの内側に存在するものだけではない。

 

広い意味では弱点となるもの全てだし、アキレス腱と称されること全般だ。

 

 

絶対強者のように見えてもアキレス腱があればそこを攻められたら安泰ではいられない。

 

アキレス腱など持ってなさそうに見えても、そう見えてるだけかもしれないのだ。

 

 

なぜアップルとグーグルは「GAFA」から脱落したのか…代わって時価総額が急増している「4つの巨人」の正体

テスラは中国EVメーカーとの競争激化、EV販売鈍化などの懸念が高まった。

アップルは生成AI関連事業において、マイクロソフトなどに後れをとった。

米国と欧州委員会のIT関連政策・規制もアップル、グーグルなどに逆風だ。

これらの3社の株価動向は、目に見えて鈍くなっている。

投資家の目が慣れ始めている証拠だ。

 

 

 

人間が繰り広げる競争の多くは相手が存在する。

 

相手は直接の敵やライバルのような場合もあれば、世間や市場のような本来敵ではないしかも特定が容易ではない存在もある。

 

 

誰だって勝ちたいだろう、しかし何に勝ちたいのか、誰に勝ちたいのか、それがはっきり分かってない人がほとんどかもしれない。

 

そういう人はとりあえず自分を伸ばそうとする。

 

自分の何を伸ばすのか、その目的は何か、おそらくそんなものはないだろう。

 

なんでも良いから何かが伸びるときっとそれに相応しい何かが見つかるはずだ、そう思って頑張ってる人がなんと多いことか。

 

このように考えると、向かうものが何であれ目的や必要な意識が明確になるのは、夢中で取り組む遊びや趣味と限りなく同じになる、たとえ仕事であっても。

 

逆に純粋に仕事意識で取り組んでいれば、勝ちたいという意識は乏しいはず。

 

 

相手の弱点や脆弱性に興味を持つというのは勝ちたいという意識がなければ無理だ。

 

自分を伸ばしたいと思ってる人には勝ちたいという意識は乏しいのかもしれない。

コスパは悪くない、ヨガブロック

時々思い出したようにストレッチをしたくなる。

 

その都度少しだけやるが自分のスタイルが確立できないため続かない。

 

やる気以外に何かが足りないとずっと思っていた。

 

そして、今日になってその足りない何かがなんとなく分かった。

 

ような気がする。

 

以下はその物語、今日一日の出来事。

 

 

遡ること何十年になるだろうか、畳生活が身近だった時にはあったのは床の高さでの生活。

 

フローリング&ベッドによって変わった生活とも言えるだろう。

 

その変化した生活様式に身体が適応したことが、不足してる何かの大元ではないかと。

 

正座は論外としても、胡座や体育座りのような姿勢がわたしの生活に皆無になっていることで身体が持っている本来の機能の一部が劣化してることが時折ストレッチ願望として現れているのだという仮説が浮かんだ。

 

その対策として補助器具が有効だろうと検索してみた。

 

その結果、これだと思えるドンピシャを見つけた。

 

フレックスクッションと呼ばれるものだ。

 

ただ値段が高い、1万円を超える。

 

類似品もあるようだが本家の方が良いと出る。

 

発泡スチロールやダンボールで代用品を作ることもできるようだが、お金と時間を掛けずに今日中に仮説が正しいかどうかを試したいのでとりあえずダイソーに向かった。

 

ストレッチボールの空気圧を低くすれば代用できるかと思ったから。

 

目的は床の上で少しだけお尻を高くした姿勢を維持できることだ。

 

ところがダイソーに行ったらストレッチボールは見当たらず店員に聞くと廃番になったらしい。

 

因みにダイソーではストレッチボールを500円で売っていたので予算はその程度だった、代用の代用になるものは無いかと探すとこれは使えるかなと思えるものがあった、ヨガブロック。

 

サイズは21cmx7cmx15cm。

 

お尻の下に置くから1個では心もとないので2個買った。

 

 

 

フローリングを傷つけるような素材ではなさそうだが、下にボロギレでも良いから何か敷いた方が良いかもしれない。

 

お尻を7cm浮かせた状態で軽く身体を動かしながら動画を見ながら2時間ほど過ごしてるが、仮説は当たっていたような感触が感じられる。

 

これを継続したからといって何かが劇的に変わるとは感じないが、いつの頃からか生活にずっと欠けていた何かを取り戻せそうな予感はある。

 

 

とりあえずコスパは悪くない。

暴走の裏にある自由

詐欺やフェイクニュースが増えるのは穏やかな生活を脅かすと思える一方で、それはすべての発言や表現に自由が約束されているからと思うととても平和だとも言える。

 

発言や表現を巡っては、とても奥が深いと勘繰り始めたらキリが無い一方で、実はとてつもなく単純かつ原始的な感情から生まれているものもある。

 

次の話はあまりにもと感じる話だが、もしウソやフェイクならば実在の有名人の名前を出してるだけに別の波紋を呼ぶことを考えると事実に近いのかもしれない。

 

 

高橋洋一氏が川勝知事のリニア開業延期の内幕暴露「スズキ自動車の鈴木修さんに…」「本当にくだらない」

なぜ川勝知事は遅らせることにこだわったのか。

 

高橋氏は「(メディアは)みんな知りたいからスズキ自動車の鈴木修さんにインタビュー行ってるんですよ。

 

その時に『川勝はよくやったよ』、『実は俺はリニア反対だったんだ』と言って、反対だったという話は一切報道されてないワケ。

 

根っこを言うと鈴木さんって川勝さんのものすごいバックなんですね。

 

その人がどうして反対だったのかがまた不思議なんだけど。

 

JR東海の葛西(敬之)さんと犬猿の仲だった。

 

本当にくだらないと内幕を明かした。

 

 

 

ツッコミどころが多いのだが、言論の自由や表現の自由が思考の暴走を促し人間社会の迷走が目立つようになってるのかもしれない。

 

 

こんな話もあった。

 

 

 

Elon Musk's X pushed a fake headline about Iran attacking Israel. X's AI chatbot Grok made it up.

 

 

記事のタイトルを翻訳すると、

 

イーロン・マスクのXは、イランがイスラエルを攻撃するという偽の見出しを押した。XのAIチャットボットGrokが作り上げた。

 

となる。

 

 

言論の自由や表現の自由が失われたら大変生き辛くなるのは当然だが、その自由が約束されていても不都合はあるのだ。

 

 

自由と権力が一体化すると暴走の自由を促進するのだ。

 

 

人間が起こす理不尽の多くはこれで説明がつく。

禅問答は永遠に

2024年年明けの能登地震。

 

自衛隊機とJAL機の衝突。

 

最近の台湾地震。

 

他にも突然の不幸はたくさんある。

 

こんな時、言葉を使って表現する人は深刻度が低い余裕がある人々だ。

 

disってるわけではない、そういうものなのだ。

 

 

2年前に亡くなられたコラムニストの小田嶋隆さんは生前こんなことを言っていた、いや書いていた。

 

 

~~~以下引用~~~

 

結局、致命的な何かが起こっている時、ふさわしい言葉は皆無なのだ。

 

言葉は、肝心な時にはいつも役に立たない。

 

たとえば、親しい誰かの訃報を聞かされた時、キミはどうする?

 

分析するか?

 

説明を試みるか?

 

それとも、対処法についてあれこれ腹案を並べてみせるか?

 

どれもダメだな。

 

そういう時は、知能指数を喪失して絶句する以外に適切な対応なんてありゃしないのだ。

 

わかってるはずじゃないか。

 

 

~~~引用ここまで~~~

 

 

これは2006年に書かれたもので、創刊から寄稿していた雑誌が廃刊するに当たってのコラムの一節で、この後分析めいた味わい深い話が展開される。

 

その最後の一文が、

 

 

で、復刊、と(笑)

 

 

その後に展開された分析めいた話は、世の中の変化は螺旋階段状の変化をすると思わせるような分析話、もちろん小田嶋さんは螺旋階段なんてワードは使ってなく、わたしが勝手にそう感じただけ。

 

 

もし復刊してれば螺旋階段説でも展開したいところだが復刊はしていない。

 

 

致命的な時、肝心な時に限って言葉は役に立たない。

 

しかし、言葉に縋るしかない時は容赦なく訪れる。

 

縋りたくなるのは言葉が紡ぐストーリーだが、そのストーリーが説得力を持つのは心の余裕が回復した後。

 

つまり時間の力を借りるしかない。

 

この場合に掛かる時間とは、無実の罪なのに刑に服させられてるようなものに感じる人もいるだろう。

 

 

リスクマネジメントの極意は、最善の結果を期待しつつ最悪に備えること。

 

準備なき最悪こそが最悪になる。

 

 

最悪とは何か?

 

それに対する準備とは何か?

 

 

永遠の禅問答だ。

可愛さ余って憎さ百倍

ゲーム業界における地位の高さゆえだろうか、それともあまりにも夢中にさせられたことの弊害でもあったのだろうか、任天堂を脅迫する話は一つではなかった。

 

任天堂に殺害予告メッセージ 茨城・日立市職員の27歳男を威力業務妨害疑い逮捕  2024年4月3日

「死ねなどと数々の投稿をしたことに間違いない」

 

 

 

「任天堂なんか死んじゃえ!」脅迫に罰金30万円 36歳女に略式命令 2023年3月8日

脅迫と威力業務妨害の罪で東京都三鷹市の契約社員の女(36)を略式起訴した。

 

 

 

 

ゲームをしないわたしには任天堂と聞いてもピンとくるものは何もないが、ゲーム業界における地位の高さは知っている。

 

社員の給料が高いことや株価の推移を巡っての話題も多い。

 

つまり、単なる好き嫌いの話題を超えて羨望や妬み僻みの対象になりやすいのだろう。

 

しかしわたしのようにゲームをそもそもしない人間にとっては限りなく無関心に近い、つまり任天堂に対して何らかの感情が動く人はおそらくそもそもゲームに関心があればこそだろう。

 

 

つまり、任天堂を攻撃する人の心理には可愛さ余って憎さ百倍が感じられる。

 

 

 

可愛さ余って憎さ百倍は、現代のように『推し』や『推し活』が生活に占める割合が公然と大きくなると、その反作用としても顕在化しやすくなりそうだ。

 

世間に多い誹謗中傷の中には、可愛さ余って憎さ百倍が由来のものが実は少なくないのだとすると、攻撃してくる敵は思わぬところから攻撃してるのかもしれないのだ。

 

攻撃は正面から受けるものだと思っていると、背後からの攻撃を防御できないように、あるいは空からだと思ったら地下からだったように。

 

可愛さ余って憎さ百倍を考えていると、過ぎたるは及ばざるが如しのようでもあると気付く。

 

180度反対の価値観や行動は意外と相性が良いとも言える、だから洗脳や中毒は起きやすいのだ。

 

 

『魔が刺した』という言い訳が世間に多いのは、そんなことするなんてあり得ないということが日常茶飯事だということを示している。

 

 

クワバラ、クワバラ。