当初想定してないことが後に重大な意味を持つと分かった時に使われる表現が伏線。
伏線は本来後から気付くものなのだが、ストーリーテリングの世界では事前に想定して張るもの。
ストーリーテリングの世界では張られた伏線が意味を持つことを回収と表現する。
伏線が上手く演出された物語は味わいを深めてくれる。
漫才で言うところの上手いフリとオチのセットのようなものだ。
上手く決まると、見てる側や読んでる側も気持ち良いがおそらく仕掛けた側の方がより気持ち良いはず。
決まらなかった(すべった)場合の落胆は仕掛けた側の方が大きいのはもちろんだが、見たり読んだりする側は伏線やフリやオチがあったことにすら気付かない場合もあるだろう。
鑑賞者が慣れてくると、伏線やフリやオチを見破ることに快感を感じるようになる。
それが繰り返されると、やがて鑑賞者は伏線やフリやオチの設定を批評するようになる。
自分の意見や考えを表現する場に事欠かない現代では、大衆は評論家になる。
評論家目線で語る時の自分は評論家なのかそれとも自分なのか?
日本文化は恥の文化と言われることがある。
昭和平成令和と時の流れと共に恥の文化は弱まってるように感じるが。
恥ずかしいという感覚は、自分自身を主観で見るのではなく他人の目線で見るから感じる感覚かもしれない。
さらに神様目線あるいは鳥の目目線、場合によっては虫の目目線になるのが俯瞰だ。
自分が感じることだからすべては主観かもしれないが、そこにはさまざまな目線からの情報が入り込む。