2024年年明けの能登地震。
自衛隊機とJAL機の衝突。
最近の台湾地震。
他にも突然の不幸はたくさんある。
こんな時、言葉を使って表現する人は深刻度が低い余裕がある人々だ。
disってるわけではない、そういうものなのだ。
2年前に亡くなられたコラムニストの小田嶋隆さんは生前こんなことを言っていた、いや書いていた。
~~~以下引用~~~
結局、致命的な何かが起こっている時、ふさわしい言葉は皆無なのだ。
言葉は、肝心な時にはいつも役に立たない。
たとえば、親しい誰かの訃報を聞かされた時、キミはどうする?
分析するか?
説明を試みるか?
それとも、対処法についてあれこれ腹案を並べてみせるか?
どれもダメだな。
そういう時は、知能指数を喪失して絶句する以外に適切な対応なんてありゃしないのだ。
わかってるはずじゃないか。
~~~引用ここまで~~~
これは2006年に書かれたもので、創刊から寄稿していた雑誌が廃刊するに当たってのコラムの一節で、この後分析めいた味わい深い話が展開される。
その最後の一文が、
で、復刊、と(笑)。
その後に展開された分析めいた話は、世の中の変化は螺旋階段状の変化をすると思わせるような分析話、もちろん小田嶋さんは螺旋階段なんてワードは使ってなく、わたしが勝手にそう感じただけ。
もし復刊してれば螺旋階段説でも展開したいところだが復刊はしていない。
致命的な時、肝心な時に限って言葉は役に立たない。
しかし、言葉に縋るしかない時は容赦なく訪れる。
縋りたくなるのは言葉が紡ぐストーリーだが、そのストーリーが説得力を持つのは心の余裕が回復した後。
つまり時間の力を借りるしかない。
この場合に掛かる時間とは、無実の罪なのに刑に服させられてるようなものに感じる人もいるだろう。
リスクマネジメントの極意は、最善の結果を期待しつつ最悪に備えること。
準備なき最悪こそが最悪になる。
最悪とは何か?
それに対する準備とは何か?
永遠の禅問答だ。