違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

ラリーを続けるように

ラリーと聞いて何を思い浮かべるか?

 

おそらく二つに分かれるだろう。

 

  • ラケットスポーツで打ち合いを連続すること

 

  • 自動車レースの一種

 

この二つは原義は同じで集合するあるいは集会するという意味らしい。

 

 

余談だが和製英語のスタンプラリーは自動車レースのイメージから生まれたもの。

 

ラリーは、自動車レースの方をイメージする人には競争のイメージが強いかもしれないが、ラケットスポーツでラリーを楽しむような姿をイメージすると競争のイメージは浮かばない。

 

 

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ビジネスや勉強の分野では順位や序列など偏差値的評価が浸透している。

 

そしてそれはスポーツ界にも及んでいる。

 

 

スポーツで競技志向が高まると体力偏差値を上げることに夢中になる。

 

体力偏差値の向上での差別化がどんぐりの背比べになると、機材(器材)偏差値を上げて差を付けたくなる。

 

これらの変化は競技志向とも言えるしプロ志向とも言えるが、アマチュアやシロウトものめり込む魔力を秘めている。

 

始めた時には楽しかったことが、キャリアを積み重ね実績が増えるほど楽しくなくなる場合の原因に競技志向があることは少なくない。

 

 

キャッチボールより難易度が高いものに卓球バドミントンテニスなどのラケットスポーツでのラリーがある。

 

ラリーが続くことが、あるいは続けることが快感な人は競技志向ではない。

 

競技志向ではない者同士のラリーでは、楽しむための一環として難易度を上げることはあっても、相手が受け取れないあるいは返せないような打ち方はただの興醒めだ。

 

競技志向ではないからといってラリーの継続が低レベルなわけではない。

 

双方共に楽しめるためには一定のバランスポイントが保たれる必要があるからだ、競技志向が強いと相手のバランスポイントを上回ることや、バランスポイントを崩して突破することが目的になるが、どちらにしてもバランスポイントに対する意識が共通点として重要になる、だからラリーの継続は高度なコミュニケーションプレイになる。

 

 

勝った負けたに一喜一憂することに疲れたらラリーの継続のような快感を思い出そう。

 

自分にとって大して難しくないことをずっと同じ気持ちで継続すると、ゆっくりと上達しながらしかし敵やライバルを作るわけでもないという世界観に入っていける。

ついた差を気にするのはもったいない

左脳は思考を、

 

右脳は直感を、

 

司ると言われる。

 

 

人間には左脳派と右脳派がいる、これはどちらが良いとか悪いではなくタイプ。

 

無意識またはリラックスしてる際の傾向くらいのもの。

 

 

簡単なチェック方がある。

 

無意識に指を組むと

親指が上になるのは

右手?左手?

 

無意識に腕組みすると

腕が上になるのは

右腕?左腕?

 

 

わたしはどちらも左。

 

このチェックがおもしろいのは、わたしの場合右を上に組もうとすると指はできないし腕はすごい違和感だらけ。

 

このチェックでの結果は4パターンしかないのだが、その際の印象の違いは4パターンを超えてさまざまあるはず。

 

こんな簡単なチェックですら人間の多様性を表すのだ。

 

しかし、このチェックでの違いは、違うということは認識できても、わたしの場合右が上になる人の感覚を真には理解できない、そのことを痛感するのだ。

 

喜びや悲しみを共感できるようには共感できない感覚なのだ。

 

 

右脳派か左脳派かで、きっと情報の処理にも差が出るだろう。

 

テーマが同じ場合、文字を好むか写真や映像を好むかあるいは別の何かを好んだり、そしてその量にも個性レベルのタイプの違いが生じるはず。

 

文字の場合だけでも、書かれたものもあれば音声もあるし意味は同じでも表現はさまざまある。

 

接してる情報がそもそも同じではないだろうが、仮に同じだとしてもその伝わり方や受け取り方さらにその理解に違いがあるとすれば、結果的に違う情報として伝わることになる。

 

 

情報を得てる人と得てない人の間に差が生まれるのは当然だが、情報を得ていても伝わり方や受け取り方によっても差がつく、さらにそこから先の理解力にも差がつけば応用にも差がつく。

 

これに加えて運が良いとか悪いという差も生じ得る。

 

つまり、同じように生きているはずだがどんどん差がつくのだ。

 

しかし、その結果が幸せか不幸かはついた差だけでは説明不可能。

 

だからおもしろいのだ。

自分を解放できるのは自分だけ

人間の悩みの99%は人間関係に起因すると言われる。

 

悩みがお金に関することや自身の健康に関することであっても、誰かに迷惑や心配を掛けるから悩みになってるというケースは少なくない。

 

法律やルールに従うのも突き詰めると人間関係の束縛ゆえということは少なくない。

 

ほぼ全ての人間は生きてる限りその濃密さに違いはあっても人間関係に雁字搦めなはずだ。

 

その雁字搦めさが愛と優しさに溢れている人は幸せだ。

 

そんな雁字搦めの人間関係を抱えていても、いや抱えているからこそだろうか、現代は孤独や孤立で悩む人がいる。

 

孤独や孤立、辞書的な定義はさて置き、人間関係の束縛と無縁でいられるはずなのに、これはこれで寂しいと悩む人も少なくない。

 

人間関係は、あればあるなりに無ければ無いなりに悩むのが人間だ。

 

遊びや趣味は自分一人でペースが作れて、自分一人でも楽しめることが良い。

 

その遊びや趣味が適度に体力を必要とするものならばなお良い。

 

どの程度が適当なのかは、それこそ自分一人の都合で決めれば良い。

 

大事なことは、自分で決めた自分にとっての適当が自分を束縛するものになってはいけない、せいぜい目標や目的の程度に留まることが肝心だ。

 

これができれば、そういう何かが持てれば、別で背負った束縛を緩めることができるはず。

良い指導者

昔から指導に関して言われてることがある。

 

 

良い選手が良い指導者になるとは限らない。

 

勉強のできる人が良い先生になるとは限らない。

 

 

どちらも意味は同じで、自分に関してしか当てはまらない理論や理屈しか持ってないのだ。

 

もちろん教えるのが下手にしか見えない場合が多いだろうし、性格が悪いと見える場合も少なくないだろうが、強いていうなら自分にできることをできないという他人の状況に対する理解が欠落しているからで悪気や悪意はないのだ。

 

昨日から『人間のタイプ』について考えている。

 

多くの人にとっては『自分のタイプ』だけが重要だが、指導者(上司なども含む)になると自分が受け持つ人のタイプを見分け理解する必要があるが、人間にタイプがあるとはそもそも思ってない指導者も多いはず。

 

自分(=指導者)に当てはまる理論や理屈が当てはまらない人に対して、違うタイプの人だという理解ができないので、単に物覚えが悪い、要領が悪い、運動神経が悪いと判断するのだ。

 

もちろん教えられてる側や部下からは偏った指導者や上司と思われるのでお互い様だが、ある意味不幸の連鎖だ。

 

どんな分野にも優秀な指導者がいる、そういう人は経験を通じて独自の理論を体系づけることができる、努力によって身に付けた術というよりも、独自のセンサーやアンテナを持ってればこそだろう。

 

 

良い指導者の役割は本が担うこともできる。

 

 

この本を読んで強く思う。

 

 

 

自分探しは永遠

病名が同じ人に同じ治療や投薬をしても治り方に差が出るのは不思議ではないし、中には一向に回復しない人すらいるかもしれない。

 

病人ではなく、健康でかつやる気がある人に同じトレーニングメニューを与え、同じ食事を提供したとしても体力の向上や身体の発達も同じにはならない。

 

なぜかは分からなくてもそれなりに生きていれば経験から理解できるようになる、多くの場合遺伝子の違いで納得するが。

 

 

間近でマラソンの女子の国際大会を見たことがある。

 

折り返し地点の少し手前で見ていたので先頭集団から後続選手まで続々と走ってきて折り返して行く姿を延々と見たことがある。

 

テレビで見てるとあまり気付かないが走る姿(ランニングフォーム)は皆違う。

 

中には上位で走っているのにおそらく身体の中心軸が歪んでいるような人もいる、きっと長年に渡って走り過ぎたからだろうと思ったが速いのだ。

 

抽象論として人間は一人一人違うというのは誰もが理解できるが、それを言ったら理解はそれ以上進まなくなる。

 

だからもう少し分かりやすく分類を試みる人は多い。

 

そしてさまざまな説が提唱されてきたし、これからも続くだろう。

 

自分に当てはまると思える説に出会えるのはラッキーだ。

 

自分一人で考えていてもよく分からないから。

 

 

自分は分類上どこに位置してるのか、この場合の分類とは序列や順位で定義される種類のものではない。

 

タイプとでも呼んだ方が相応しいかもしれない。

 

自分が理解する自分というタイプと、集団の中にいるからこそ見える自分というタイプ、この二つが一致に近い方が楽に生きれるとは限らないが、少なくとも自分のタイプは複数存在し得る。

 

ここで重要なのは右利きなのか左利きなのかのようなタイプの違いだ。

 

目指してるとか理想だとかは関係なく、否応なく身に付けてしまったタイプだ。

 

この場合のタイプには持ってる価値観や美学が影響を及ぼす余地はあるが、あまり大きくは動かないはず。

 

 

このように考えると自分探しは永遠だなと思えてくる。

 

 

騒音や雑音をバカにしてはいけない

静かに振る舞うことが重要なマナーという場がある。

 

分かりやすい施設が図書館や病院。

 

普通の声で話してる小さな子供を連れたお母さんが恐縮してる姿なんかは全然許容範囲なのだが、ある程度以上の年齢の者がさまざまな音を無神経なレベルで立てていると腹が立つ。

 

音に対する反応にはかなり個性が現れる。

 

集中したい作業をする場合であっても適度な生活音がある方が作業が捗る場合と、捗るためには静粛性を必要とする場合がある。

 

この反応は誰でもが同じではない。

 

他人が立てる音が気になる人は、自分が立てる音は極力立てないようにと気を使うだろう、時には失敗があるにせよ。

 

無神経な音を立てる人はおそらく自分が立ててる音が気にならないもしくは気にすることができないのだろう。

 

どのような種類の音であれ集中力が高い人だと気にならないし気にしないかもしれないので、集中してる人は自分が出してる音に思いが行かないだろうし、他人の音が気になる人はそもそも自分がやることに集中できてないからとも言える。

 

しかし、音が気にならないことが耳の機能に起因してるとすれば認知症かもしれないのだ。

 

認知症をdisろうとする話ではない。

 

今朝寝起きで聞いたラジオで、大規模な調査で認知症の最大リスクが難聴であるということが確定的になったのが昨年からだと言っていた、これは耳鼻科業界に激震を与えたとも言っていた。

 

 

難聴は単なる老化ではなく、年月を掛けてさまざまな要因が積み重なった結果起きるもののようだが、聞こえない聞こえにくいは重大な影響を及ぼすのだ。

 

次の図はTwitterで拾った。

 

不明.png

 

 

忍び寄る危険を察知する場合、察知するのは気配。

 

人間が収集する情報の8割は目から入ると言われるが、気配を察するような場合は目からよりも耳や鼻からの方がものをいう。

 

難聴になると危険を察知するのが遅くなる、または察知できない、そうなると大変だ。

 

難聴だから騒音や雑音が気にならなくて良いという人を知ってるが、騒音や雑音に晒され続けた結果が難聴だとすると、騒音や雑音を上手く避けるというのも立派なリスクマネジメントだと分かる。

 

騒音や雑音は音量の大きさも問題になるが、TPOによってはただ聞こえるというだけでも騒ぎになることがあるが、そこに難聴というキーワードを絡めることは少ないが実は密接に関係してるかもしれない。

 

 

すべては目線の違いから

当初想定してないことが後に重大な意味を持つと分かった時に使われる表現が伏線。

 

伏線は本来後から気付くものなのだが、ストーリーテリングの世界では事前に想定して張るもの。

 

ストーリーテリングの世界では張られた伏線が意味を持つことを回収と表現する。

 

伏線が上手く演出された物語は味わいを深めてくれる。

 

漫才で言うところの上手いフリとオチのセットのようなものだ。

 

上手く決まると、見てる側や読んでる側も気持ち良いがおそらく仕掛けた側の方がより気持ち良いはず。

 

決まらなかった(すべった)場合の落胆は仕掛けた側の方が大きいのはもちろんだが、見たり読んだりする側は伏線やフリやオチがあったことにすら気付かない場合もあるだろう。

 

 

鑑賞者が慣れてくると、伏線やフリやオチを見破ることに快感を感じるようになる。

 

それが繰り返されると、やがて鑑賞者は伏線やフリやオチの設定を批評するようになる。

 

 

自分の意見や考えを表現する場に事欠かない現代では、大衆は評論家になる。

 

 

評論家目線で語る時の自分は評論家なのかそれとも自分なのか?

 

 

日本文化は恥の文化と言われることがある。

 

昭和平成令和と時の流れと共に恥の文化は弱まってるように感じるが。

 

恥ずかしいという感覚は、自分自身を主観で見るのではなく他人の目線で見るから感じる感覚かもしれない。

 

さらに神様目線あるいは鳥の目目線、場合によっては虫の目目線になるのが俯瞰だ。

 

 

自分が感じることだからすべては主観かもしれないが、そこにはさまざまな目線からの情報が入り込む。