違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

『風呂キャンセル界隈』で思い出した話

Twitterで『風呂キャンセル界隈』が話題になっていた。

 

 

 

 

いろいろ目を通すと反応には幾つかのパターンがあることが分かる。

 

  • 鬱や適応障害があると風呂に入るという行為には付きまとう作業が多くてとてもストレスフルでそのため風呂に入るのが億劫になる、決して不潔で構わないとは思ってない

 

  • 単純に面倒、それが不潔と言われるならそれはそれで構わない

 

  • 単純に面倒、もっと楽に済ませたい

 

  • 風呂に入って身体をきれいにしたら風呂が汚れる

 

 

本来の意味は鬱などの症状を持つ人のことを指すようだが、どうやら広い意味で心(感じ方や考え方)の問題なのだ。

 

これらのツイートを読みながら、20年くらい前の講演会で聞いたある成功してる経営者の話を思い出した。

 

大手上場企業の社員を辞め独立し事業が軌道に乗るまでの間に廃人になりかけたことがあったと話していた。

 

何もする気がしなくてゴロゴロしてるばかり、風呂に入らないなんて当たり前だったが、それでもやってることがあった、食うこととトイレだ。

 

そんなある日、トイレすら行くのが面倒になり、寝転がったまま垂れ流しでも良いかと思いかけたことがあったらしい、その方が30歳頃の話。

 

しかし、ギリギリのところでトイレに行った、そこで初めてこのままではダメだと目が覚めたという話。

 

やる気がなくなると全てがめんどくさくなりトイレすら面倒になる、年老いて体が動かないとかではなく、若くて本当は元気な人でも悪条件がいくつか重なると誰にでも起こり得ると、経験談を語っていたことを思い出した、その話を聞いた頃のその方は50代だったはず。

 

生きることとはめんどくさいのだ、そもそもからして。

 

そのめんどくさいことを楽しめる人と、めんどくさいことは楽しめない人に分かれるのだ。

 

勘違いしてはいけないのは、めんどくさいことを楽しめる人が成功者というわけではないという点。

 

ただめんどくさいことを楽しめる人には不平不満は少ないことと、人を見る目も養われるのだ。

 

そして最も重要なことは許容し難いめんどくささは避けた方が賢明だという点だ。

 

上手に逃げるというのは大事なことなのだ。

 

最短ルートという遠回り、遠回りという最短ルート

目標や目的が明確な人はモチベーションが高くなる。

 

モチベーションが高くなると、結果を得るための最短ルートを求める。

 

そういう場合に最短ルートに感じる方法や手段には大勢の人が集まる。

 

 

そんなこと考えてるのは自分だけだろうと思っているような人が大勢集まるのだ。

 

そういう人が得ている情報がほぼ同じだからだ。

 

最短ルートを求めるとは、最短時間で結果を得ることを求めるということ。

 

ここから先は、最短ルートに関する抽象論。

 

ごく日常的な通学や通勤のルートはほとんどの人が想像し得る最短距離もしくは最短時間のルートに固定化されてるはず、徒歩だろうと自転車だろうと車だろうと。

 

最初は複数の選択肢があったかもしれないが、やがて一つに固定化される場合が多いはず、そして一旦固定化されると違うルートに対しては違和感しかなくなる。

 

違うルートを選択するには強いモチベーションが必要になるが、このモチベーションが習慣化されない限り違うルートの選択は続かない。

 

単なる通り道に関してだけでなく、進学や就活その後の出世や転職その他様々な人生の岐路でのルート選びにも通じるはずだが、人生のルート選びに関しては最短ルートを選んでるつもりなのにとんでもない遠回りをしてる場合も少なくない。

 

脳内で描かれる最短ルートのイメージは人による差があまりないので共通化共有化が行われやすい、結果マニュアル化らしきものを作ることも容易。

 

それに比べたら遠回りのマニュアル化がいかに難しいか。

 

 

 

冒険の分野では最短ルートはチャレンジングな行為として評価されるのに対し遠回りは楽をしてるようですあまり評価されない、しかし考え方を変えると遠回りも極めればとてもチャレンジングに感じられるはず、掛けた時間やエネルギーの持続が必要なのだから、それに加えて遠回りしたことで目的外の何かを得ることもあり得るからだ。

 

 

最短ルートを目指す人は得てして人生の遭難者になりがちなのに対して、遠回りを目指す人は遭難することすら楽しめる。

 

 

人生においては、最短ルートと遠回りでは逆転はよく起きるのだ。

信じる者は救われるのか、それとも騙されるのか

知るから始めるということがある。

 

当然知らなければ始められない。

 

問われるのは、何を知るかだ。

 

良いこともあれば悪いこともある。

 

有名人を装った詐欺広告を、詐欺と気付かずに知ったことで始まる悪夢もあれば、名著との出会いでそれまで知らなかった考えや価値観に目覚めその後人生が好転するということもある。

 

知ることから始まることが悪いことであっても良いことであっても、知るの次に理解するが来てから始まる。

 

つまり、第一段階として何を知るかが大事で、第二段階として知った何かをどのように理解したかに進む。

 

どのように理解したかがその後の行動に大きく影響する。

 

しかし、どんな良いことでも知ることだけ、あるいは理解するまでで終わり、そこから先には進まないというケースも少なくはない。

 

それがリスクヘッジだと知ってるからだ。

 

時代は確実に進歩進化してるように見えるが、進歩進化するのは良いことだけでなく悪いこともだ。

 

いつの時代も、良いことと悪いことは表裏一体、そういう危うい状態は『トレードオフがある』と呼ばれ、表裏一体だが両立はしない。

 

だから再現性はあったり無かったりだ。

 

ある人にとっての成功の法則は、別の誰かには敗北の法則となる。

 

世の中はそんな表裏一体のトレードオフで溢れている。

 

 

何かを信じるというのは仮説を立てたのと同じで、その後に必要なのは検証で、その検証から得られたことをベースにして初めて自分にとっての何かが始まるのだ。

スローも悪くない

最近の大谷翔平さんの打球を伝える際に飛距離に加えて打球速度が話題になることが増えた。

 

昨日は、ピッチャーの山本由伸さんが打球速度169kmのピッチャーライナーを神業のごとくキャッチしたと話題になっていた。

 

速度というのは単純に人を熱狂させるのだ。

 

20世紀のテクノロジー競争はスピードアップによる時間短縮が大きなテーマだった。

 

飛行機や鉄道のようにほとんどの人にとっては自ら操縦するわけではない物のスピードアップに熱狂する人は多かったし、ましてや自ら操縦運転する乗り物に関しては言うまでも無い。

 

スピードには魅力がある。

 

スピードという基準は単純明快で比較がしやすいという特徴も備えている。

 

つまり、速いことは偉いし立派なのだという暗黙の前提が成立しやすいのだ。

 

しかし、速度の速さは度が過ぎると興醒めでもあるということももう一方の現実なのだ。

 

余談めいた話だが、スピードの延長線上の価値観にファストフードやファストファッションが存在している。

 

 

興醒めにつながる要素としては大きく二つに分かれる。

 

一つは、速度というのは単なる情報に過ぎないと気付くとどうでも良くなるという点、一例としては地球の自転速度は赤道では時速1500km南極や北極では0kmだが、日常生活では実感はまるでない、その程度のもの。

 

もう一つは、危険であるとか独り善がりという迷惑系の臭いが強くなるという点。

 

スピードの魅力は体感できると魔力になり、さらに嵩じると麻薬になる。

 

しかし、少し考え方や価値観が変わると、途端に魅力が失せるし、楽しみとして持続可能性が低いということに気付かされる。

 

 

スピードに取り憑かれると、人は攻撃的で排他的になる。

 

 

人間は180度反対の価値観との相性は実は悪くない。

 

スピードに魅力を感じる人ほどスローとの相性も悪くないはず。

 

パラダイムシフトで消せる怒りやムカつき

最初に覚えたことに振り回されることは多い。

 

最初に覚えたこと、あるいは最初に目覚めた価値観はなかなか変えられない。

 

世代間ギャップは最初に覚えたことの違いから起きる、かもしれない。

 

 

覚えたことが影響することの違いは男女にもあると言われる。

 

男のフォルダー保存に対して女の上書き保存などと。

 

フォルダー保存しがちな人は最初の頃の記憶に縛られがちだろう、自覚がなくても。

 

一方、上書き保存ができる人は最初の頃のことは記憶していてもそれに縛られにくい。

 

新しい価値観に瞬時に対応できるのはきっと上書き保存派の人だろう。

 

新しい価値観が生まれることはパラダイムシフトとも呼ばれる。

 

Wikipediaではパラダイムシフトを次のように定義している。

 

パラダイムシフト(英語: paradigm shift)とは、その時代や分野において当然のことと考えられていた認識や思想、社会全体の価値観などが、革命的に、もしくは劇的に変化すること。

 

 

パラダイムシフトとは個人や少数派ではなく、その価値観が多数派になることで、あるいは多数派に近づく勢いを見せることで共通認識になるが、パラダイムシフトが起きる時には付いて行けない人が出る。

 

趣味嗜好の分野における喫煙飲酒なども20世紀と21世紀ではパラダイムシフトに晒されてる分野だ。

 

政治経済社会保障や健康の分野でも不平不満や心配が渦巻いているが、こういう分野でもパラダイムシフトが水面下では起きている、まだまだパラダイムシフト未満かもしれないが。

 

決して条件的に恵まれてるとは言えなくても、持ってる価値観をシフトさせられるだけで幸せになれるという人が多くいる一方で、旧来の価値観から抜け出せず、本当は恵まれてる立場なのに不平不満や嘆きしかない人もまた多い。

 

 

そして不平不満以上に厄介な感情が怒りだ。

 

ここでいう怒りは理不尽を受けた場合に感じる怒りではない、単なる不平不満の延長線上にある怒りでムカつくと表現する方が伝わりやすいかもしれない。

 

パラダイムシフトが起きかけてる現場でそのシフトする価値観に付いて行けないあるいは適応できない人は最初は不平不満から始まるが徐々に明確な怒りに変貌する。

 

怒りやムカつきはパラダイムの固定化が引き起こす場合が多い。

 

そんな状態から抜け出したければパラダイムシフトしかない。

ダンサーじゃないのに踊りたがる人々

阿波踊りで有名な『踊る阿呆に見る阿呆同じ阿呆なら踊らにゃ損損』は実は人間心理(日本人心理かも)の深さというか浅さを示しているのかもしれない。

 

Wikipediaよると、

 

阿呆(日本語: あほう、あほ・英語: Idiot・中国語: 白痴)は、愚かであることを指摘する罵倒語・侮蔑語・俗語。近畿地方を中心とした地域でみられる表現で、関東地方などの「馬鹿」、愛知県などの「タワケ」、石川県・富山県・島根県出雲地方などの「ダラ」に相当する。行動の愚かさだけでなく、学のなさなどもさす。また、そういう人のことを指す。「馬鹿」と同じ意味を持つ。

 

 

 

塵も積もれば山となると言うが、積もる塵よりも塵を集めるために払ってる無駄が多いことには気付かず、差し引きするとマイナスだということに気付かない人のなんと多いことか。

 

水原一平さんのギャンブルスタイルのようだ。

 

その答えはきっと『だって踊ってるんだもん』だろう。

 

 

行列をつくる心理とも共通してそう。

 

 

消費税導入前の駆け込み需要などもだ。

 

安く買うのは賢明だが、そこに期限が設けられると、あるいは別の何らかの条件が設けられると阿呆合戦が始まり踊りたくなる。

 

行列ができるような場ならばライバルは他の阿呆に見えるが、真のライバルは目先の損得の目先と未来の区別をつけられずに踊ってしまう自分自身なのだ。

 

逆にいうと、踊らせる仕掛け人は賢い商売人と言える。

 

きっと初期の行列に並んでる人の中にはサクラがいたはずだ。

 

そんなサクラが以前盛んに使われたリア充に見えたことだろう。

 

 

人間社会はダンサーでもないのに踊る人で溢れているのだ。

 

わらしべ長者に学ぶこと

わらしべ長者という昔話を知ってる人は多いだろうが、きちんと理解してる人はどれくらいいるだろうか?

 

わたしは中途半端な理解をしていた一人だ。

 

わたしが理解していたわらしべ長者とは、自分が持ってるモノを物々交換で価値を上げ続け最後は大金持ちになるというものだった。

 

現代で言うところの転売サーフィンの繰り返しのようなものだ。

 

しかし、実際のわらしべ長者の物語は、自分が持ってるよりももっと役に立つ人がいるから自分の持ってるものを上げその際に相手から感謝されそのお礼に相手が持ってるものを受け取る、あるいは相手からあなたの持ってる〇〇とわたしが持ってる△△を交換してくださいと持ちかけられるということを繰り返していたという物語で、やってることは転売風でも気持ちも状況もまるで違っていたのだ。

 

 

 

わらしべ長者の話でもっとも重要な点は、ただ相手に優しくしたというよりも、優しくするに値する人に優しくしたという相手を見抜く目を持っていた点だ。

 

これは現代にこそ必要な視点だ。

 

ついでに言うと、わらしべ長者の儲かり話はすべて未来に向かう話で、過去を高く評価させるという展開ではない。

 

 

わらしべ長者の話からの教訓を整理すると、

 

  • 他人にとって価値があるものが自分にとって価値があるわけではない

 

  • 他利を考えられる心の余裕は長所になる

 

  • 意識は過去ではなく未来に向ける

 

 

そして現代ならではの要素として付け加えたいのが

 

  • 困ってる人と困ってるフリをする人の見分けがつくか

 

  • 助け甲斐のある人と助け甲斐のない人の見分けがつくか

 

付け足した項目は意地悪のようにも感じるが、これは結構重要なのだ。

 

そして不幸なことに取り違え判断は頻繁に発生するかもしれない。

 

 

だからこそ目利き力が必要になる。

 

目利き力は取り返しがつく範囲での失敗が役に立つ。

 

 

とかく現代人は人を利用することを考えたがる。

 

資本主義の行き詰まりの一つの理由はそういうところだろう。

 

利用したいが利用されるのはイヤ、何かの判断や決定をするたびに正しく利用できてるか、利用されてないかを常に考え構えるようになっている。

 

正しく利用できることは得や儲けで、利用されることは損。

 

そんな価値観で武装してるはずなのに詐欺被害は増える一方。

 

 

温故知新なわらしべ長者の話は新鮮だった。