3つの捉え方ができる『健康』。
1つ目は、行政的な目線で医療費を抑制するためには、国民に病院に行かない生活をして欲しいという目線で、そのために健康であって欲しいという捉え方で、コスト削減が目的で、健康とは病院に行かない生活だが、病気ではないということを検査で確認して欲しいと望み、大きなコストを抑えるためには小さなコストはしょうがないという考え方だ。
2つ目は、行政的な目線と似てるが家計の目線で健康を捉えると、医療費の抑制も然ることながら、その延長線上にある介護による更なる出費を抑えることに繋がり、そして出費だけに留まらず精神的、肉体的な苦痛からも解放されるだろうという考え方で、現場の苦労を最小限化したいと願う気持ちで、”健康=病気ではない(病院には行ってない)”で良しと考える。
3つ目は、『健康』を自分なりに積極的に定義するという、自分らしい生き方という捉え方だ、ここで言う『健康』は生き方の美学になるので、もっともっとを求めるようになるが、他人との競争をしながらも実質的には自分との競争になる。
極めてパーソナルな問題のはずだが、自分の中できちんと定義できてないものの1つが、健康とはなんだろうかということだ。
自分のことを自分のことばで定義できるということが非常に重要になる。
似たようなことに、仕事の選び方がある。
メガバンク若手の転職希望者急増、現実は嫁・親ブロックで内定辞退も
「勤務先、妻、自分の親という3つの反対に遇いました。メガバンクのことは好きだったので自分自身が悩んだこともあって、結局転職までに2年かかりましたね」
「年収は半分ぐらいになりました。それでも、最低限家族を養っていけるし、いずれダブルインカムにすれば何も困らない。これが私にとっての家族の守り方でした」と、屈託がない。
過去や現在に囚われて未来を過剰に心配する考え方や生き方と、過去や現在を踏まえ未来に目標を設定する生き方の違いに分かれている。
AIが代替する仕事が増えるという論調が増えてるが、AIの出番を待つまでもなく仕事は変化している。
その昔、仕事の募集は事務職か営業職かという分けられ方をしていたが、最近ではスペシャリストかゼネラリストかという分けられ方をしている。
世間一般では、スペシャリストの方が評価は高い。
では、どうやったらスペシャリストになれるのか?
仕事なんてどれも同じという言葉がある。
このことばを口にする人は両極端に別れる。
すごく優秀で出来る人(多くは経営者になる)と仕事が全くできない人だ。
スペシャリストとは一言で言うと、経験と経験に裏付けられた知識を豊富に持つ人だ。
優秀なスペシャリストは、自分のビジネス(やってること)を自分の言葉で定義することが出来る。
逆に言うと、定義できるだけの経験をいかに積めるかが問われる。
その入口は、なんでも良いからやってみるということだ。
興味や関心があるならば、やらなければ損だ。
やれば経験になるし、スペシャリストのヒントは一見無関係なところにあったりする。
なんか仮想通貨とかカジノとかやってると月収分が瞬間で儲かったり失ったりして真面目に働くのがバカらしくなるけど、それでいいのだ。真面目に働くのがバカらしくなった後も、気がついたらやってしまっているものが本当の仕事だ。
— 箕輪厚介 (@minowanowa) 2018年1月8日
現代版の天職とは、こういうことを言うのだろう。
日本ではスペシャリストは優秀だが一匹狼のように捉えられることもあるが、真のスペシャリストは実はゼネラリストでもある、だからスペシャリストとしての一歩をゼネラリストとして踏み出すこともありだろう。
上機嫌に振る舞うことは社会人としてのマナーともいえる。イギリス人の作家サッカレーは、「上機嫌は人が着ることができる最上の衣裳である」と言っている。アランも『幸福論』の中で、「私は義務の第一位に上機嫌をもってくるにちがいない」、「不機嫌というものは、結果でもあるが、それに劣らず原因でもある」と述べている。不機嫌は不機嫌を誘発し、全体を不機嫌にしてしまうからだ。
人間は、結局配られたカードで勝負するしか無いが、ゲームを続けていれば、不思議な事にゲームのルールを自分で定義できるようになることがある。
そのためには上機嫌で振る舞うことが大事になるし、そもそも健康じゃないと上機嫌に振舞えない。