敵はどんな顔をしているか?
敵の最初の認識は、自分と属性が違うということかもしれない。
"なんか違う"の積み重ねが、敵を作るのかもしれない。
昔、私はオートバイを改造して乗ることを趣味にしていた。
オートバイ乗りの間では、オートバイに乗る人をこっち側の人、乗らない人のことをあっち側の人と呼ぶ習慣があった。
こっち側にも2種類あり、"改造する"人と"ノーマル"の人というカテゴライズがあった。
もちろん暴走族ではないつもりだったが、あっち側の人から見たら同じだったかもしれない。
私の周りにいたこっち側の人は、走るときは自分のペースを重視し、一緒に走る仲間がいてもお互いのペースに干渉しなかったが、休憩場所だけ決めてそこでワイワイガヤガヤ情報交換をしていた、自分勝手に走っているのに同じペースになる人同士は親密さの度合いが深くなりがちだった、通じ合う何かがあるような気がしていた。
世間で言う暴走族は、常に徒党を組んでるように見える点で全く異質な存在だと感じていて、私が付き合ってたこっち側の人に共通した感じ方だった。
本来は敵ではないが、オートバイに乗るということだけでも、こっち側、あっち側、暴走族、とカテゴライズし、互いに分かり合えない存在と区別していたことがある。
しかし、このような関係は強いようで脆く、結婚や子供の誕生などをキッカケに、あっち側に行く人も多かった。
このような傾向は今では全ての趣味の分野に当てはまるように感じる。
それぞれの分野に、独自のリテラシーが出来上がり、そのリテラシーを理解できない者は異質な存在とされる。
険悪な敵対関係では全く無い、お互いになんとなく通じ合わないなと感じるだけだが、目に見えない壁ができることがある。
群れたいわけではないのに、結果として群れている。
なぜ人は他人を「敵」か「味方」に分類するのか
研究から、人間の「群れたがる性質」を知る手がかりが見えてくる
ナショナル・ジオグラフィック 2018.03.30
人種や宗教、文化が違う者同士が何十年、時には何百年も仲良く暮らしていた。事態が突然変わり、よく知る顔が「彼ら」「敵」「あっち側」と呼ばれる存在になる。
集団と集団のぶつかり合いでは、個人という概念は消えて、相手への共感も信頼もすっかりなくなってしまう。ナイジェリアと同じことが、フランスや米国の移民と地域住民の間でも起こりうる。状況は異なるが、重要なのは状況が違っても起こるということ。つまり問題の根底は同じなのだ。
群れたがる性質は、別の群れを敵と見なす傾向が強いが、実は本当の敵は"群れたがる性質"そのものかもしれない。
敵は本能寺にあり。
敵が"群れたがる性質"だとしても、それを無くすことなどできない。
問題なのは、群れを作ると、そんなつもりがなくても排他性が生じることにある。
人はいきなり「おすすめ」なんてしない 『ファンベース』さとなおさん×『熱狂顧客戦略』高橋さん特別対談
大都会で仕事をしていると認識しづらいかもしれませんが、スマホやネットを駆使している人は、日本全体で見ると実はマイノリティと言っていい。たぶん2~3割しかいないと思います。大半の人は、ネットは利用してても使うのはメールとLINEとソーシャルゲームくらいで、日常的に検索すら使わない人がたくさんいます。
ヤフーから47都道府県別の検索数調査が出てますが、検索を使っているのってダントツに東京だけ。東京は別の国なんです。その外側にはネットのつながりよりリアルなつながりを大切にするライフスタイルの人が大勢いて、実は日本の大半はそういう人たちなのです。そういう人たちにはまだまだテレビが強力な影響力を持っています。
この"東京は別の国なんです"の元ネタがこれ。
日本は2つの国からできている!?
~データで見る東京の特異性~ 2016/3/8
こちらをみると、東京人は他県に比べて圧倒的に検索数が多いことがわかります。
東京の一人あたり検索数を100とすると、次点の大阪でさえ東京の3分の2にも満たず、ほとんどの地域では東京の半分以下という状況でした。
最も少なかったのは鹿児島で、東京よりも7割以上少ないことがわかりました。
調査の条件は、"Yahoo!検索データ(2015年1月~12月、PCのみ)"となっている。
突っ込みどころはPCのみってところかもしれないが、本気で能動的に調べようと思ったらPCのほうが本気度は高いだろう。
趣味嗜好性が高かったり、雑学の範囲だと東京と地方の差はもう少し縮まるかもしれないが、ネットの世界では「ググれカス」は、「ググってもカス」にシフトしている、情報が増えることは単純に喜べない時代になってきた。
ちなみに、検索数が最下位の鹿児島は、
鹿児島県の大学進学率 15年連続最下位 九州経済研究所 2018/05/09
今時の大学進学に大きな価値があるとは思わないが、検索しないことと無関係ではなさそう。
少し脱線気味なので戻すと、上記の『人はいきなり「おすすめ」なんてしない・・・』の中にこんなことばがある。
これまでの経験から、たとえ熱狂的なファンでも、自分がなぜそれを好きなのか、うまく言語化できていないケースはとても多いです。ファン同士で話すことで自分が好きな理由に気づくことがある。以前行ったインタビュー調査では、「誰かに話すたびに好きになっていく」という方もいました。
また、お勧めするというのは能動的な行動ではなく、どちらかといえば受動的で、訊かれたときに答えるものだと思います。カメラに詳しい先輩にお勧めを訊いたことがあるんですが、質問すればいくらでも教えてくれる。けれど、僕がカメラについて関心があるそぶりを見せていないのに、いきなり「カメラはこのメーカーがお勧め」なんて言ってこないですよ(笑)。
同じ群れに属していてもうまく表現できないことは多いということは、私にも思い当たることが多くある。
良かれと思ってするアドバイスだが、そんなアドバイスも求められてなければ、只のおせっかいだが、意外とやってしまう。
「だって、良かれとおもってるんだもん」と、相田みつおが浮かんでくる。
純粋に趣味の世界でも、この誤解は生じるくらいだから、アドバイスする側に下心があるビジネスの世界では、相手(お客)に壁を作らせてしまう。
このようなことを考えていたら、この神話を思い出した。
イソップ童話の『北風と太陽』にも似ている世界観がある。
歴史を紐解くと、過去から現在は連続的につながっているが、その歴史の主役の人間はたかだか数十年の寿命しか無い。
絶えずプレーヤーが入れ替わるゲームをしているようなものだ。
人間は、時の流れとともに生活環境という周辺部は大きく変化させてきたが、人間本体はおそらくあまり変化していない。
人間本体はあまり変化していないのに、人間関係だけは複雑だったり、ややこしかったりする。
複雑だったり、ややこしかったりするのは、人間関係よりも心のあり方のほうかもしれない。
自分には敵がいるなと感じたら、自分の属性に目を向け、敵の正体を見つける。
敵は敵の顔をしていない。
敵の正体を見つけたら、(自分なりの)本能寺を探せ!
本当の敵は、そんな本能寺にいるし、その扉の前には天の岩戸がある。