違う見方

誰でもできるけど、自分にしかできないのが、判断するということ! 情報過多な現代は偏り(バイアス)も強いので思わぬ方向にずれていくこともある。そんなズレを修正したりブレーキをかけるために少し違う目線を持ってみたいという備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

見えないものを見る!

価値観の多様化と言われるが、多様化した価値観は、あらゆる分野の裾野を拡大させる。

 

顕在化した価値観が増えると、直接目につくものも増えてくる。

 

価値観の多様化という捉え方をすれば、良いことのような気がするが、関心や興味を持てないことや、まして嫌いなことが自分の身の回りで増えているとすれば、これはストレスにつながるだろう。

 

自分が好きになれないことに夢中になってる人がいたら、おそらくその人のことを嫌いになってもおかしくない。

 

ストレスやムカツキの増大が社会に増えたことは、価値観の多様化と無関係では無い気がする。

 

しかし、こうなる少し前の時期に思いを馳せると、マイナーな趣味を持っている人たちは、社会の片隅でひっそりと隠れるように生きていたはずだ。

 

そんなマイナーな趣味を持っていた、後にオタクと言われるような人々は、そんな状況にストレスを感じていたはずだ。

 

ストレスの原因は、趣味を理解してもらえず、時には変態呼ばわりされることにもあっただろう。

 

時の流れとともに裾野が拡大していった価値観は、生き辛さにストレスを感じていた人々の心を開放させることにつながったはずだ。

 

 

しかし、逆にそのことにストレスを感じる人(以前オタクをバカにしていたような人々でその後もオタクに共感を持てない人)が反対に増えているはずだ。

 

このようなことが、到るところで起きているだろう。

 

マナーなんかもこれに当たるだろう。

 

気にしない人にとっては全くの許容範囲におさまる振る舞いが、どうしても許せないという人が増えている、そういう人は正しさを主張するし、伝統的なものや昔からのやり方を正しいと主張する傾向にある。

 

 

ストレスに起因するうつ病の増大が社会問題化している、そしてそれ以前の段階で不快が大幅に増大しているのは、一人ひとりが持っている価値観や心の許容範囲の狭さのせいで起きている。

 

 

ここまで書いたことの全てに共通してることは、私達は目の前の見えてるものに反応してるということだ。

 

不快な話も、知ってるだけではストレスは弱い。

 

その話が目の前で展開されるから不快の度が増すのだ。

 

増した不快が、許容範囲を越えだすとストレスでおかしくなり始めるが、これは極めて個人差が大きいので、反応はピンキリとなる。

 

 

つまり、我々は、

 

 

見えてるものに振り回される!

 

 

 

そして、相変わらず、

 

 

見えないものには気付かない!

 

 

 

価値観の多様化は、探しものは見えないものの中にあるかもという、暗中模索に似ている。

 

 

先日、探しものは何ですか?というエントリーを書いたが、そこで井上陽水の"夢の中へ"という曲の歌詞を引用した。

 

 

 

現代人の探しものは、見えないところにある。

 

見えてしまうものばかりが気になってしまい、そこから意識が離れないために、探しものに気付けないのだ。

 

そんな時は、大きく論点をずらし、歌詞にあるように踊ってみるのも良いかもしれない。

 

もし、見えているものの中で最もストレスになっているのが『人』ならば、今いる環境を変えることが最も良いはずだ、相手の態度や考え方を変えようとすると更にストレスが増大する。

 

環境が変われば、実際に目にする風景すら変化する。

 

それ以前には、全く見えなかったものが一気に見えてくるだろう。

 

心の許容範囲を広げることができるならばそれが良いに決まってるが、人生は短いので、そこでストレスを抱えるよりは、許容範囲の狭さを意識した上で、求めてるものがあるならば、

 

見えないものを見る!

 

 

が大事。