価値観の共有が成立する場合、前提となるのが、共通の相場観を持ってること。
趣味や遊びだろうと学問だろうがビジネスだろうが。
スポーツであればルールになるだろう。
この延長線上に存在してそうなのが法治国家の場合法律だ。
一見カバーする領域が重なりそうだが、法律やルールと相場観はまったく違う。
相場観は、継続しての取り組みや、その取り組みにおけるコミュニケーションの結果得られるもので、努力などとは馴染まないセンスのようなものであり、経験的学習だ。
上手く作用するとプラスの効果が大きいかもしれないが、負の作用も少なくない。
世の中で起きる陰湿な出来事に少なからず関係してるだろう。
デジタル化が進むことは当初IT化と呼ばれていたが、最近ではDX(デジタルトランスフォーメーション)と呼ばれるようになった。
この両者は、ITが単なる技術をテーマにしてるのに対し、DXはその技術が何の役に立つのかをテーマにしているという違いがある。
しかし、この違いが共有されてなければ、最近はITのことをDXって呼ぶようになったねと混同するだけだ。
情報化社会になって久しく、情報やデータは飛躍的に増え、その解釈にも多様性が許容されるようになると、同じテーマでコミュニケーションしてるつもりなのに、コミュニケーションが成立しないことが増えるはず。
このコミュニケーションの不一致は多くのケースで、価値観の多様化ゆえだと諦め気味かもしれないが、実際には前提の共有ができてないから起きている。
情報の字面だけを追いかけるのに精一杯になると、前提となってる相場観やテーマを理解できないまま議論に参戦せざるを得なくなる。
前提となってる相場観やテーマを理解できない人は、自分が除け者扱いされてると感じたり、いじめに遭ってると思い込むだろう。
少数派であっても反撃に転じることはある。
そういう人物を見てる周りの人は、最近は変なのが増えたなとか、怒りっぽいバカが増えたなとしか感じないだろう。
もっと怖いのは、自分自身が怒りっぽいバカに分類される可能性があることを忘れがちだという点だ。