私はド近眼なのだが、視力が落ち始めたのは中学入学以降。
母がド近眼なので遅かれ早かれ視力が悪くなるだろうと言われながら育っていたのだが、昔はメガネは非常にカッコ悪いアイテムだった。
今とは違い、メガネは「時計・宝飾・眼鏡」と括られていた。
そのレンズの形状から「牛乳瓶の底」と揶揄されていた。
「牛乳瓶の底」という言い方は、現代では通用しないんだろうな思ってTwitterを見ると、「牛乳瓶の底」は現在も現役だと分かる。
ところで表記は「めがね」「眼鏡」「メガネ」となるが区別されてるのだろうか思いGoogle Trendsで検索可能な2004年以降で比較すると、
これだけのバラツキがあるが区別されてるのか、たまたま変換されただけなのかは分からない。
一番多いカタカナのメガネを現代の標準とすると、「眼鏡」が元祖のような気がするが最初は視力矯正という目の機能を補完するという医療よりの存在だったはずだ。
眼鏡をかけなければ見えない人にとっては、仕方なく利用するのが眼鏡だったが、世間的には眼鏡をかけることはカッコ悪いと思われていた上に高価だったし、おまけに落とせばレンズが簡単に割れるという厄介なものだった。
眼鏡をかけることがカッコ悪いと思われた理由の一つは、視力が悪い人が少数派だったこともあるし、例の「牛乳瓶の底」も関係している。
おまけに、眼鏡をかけるとスポーツは危険だと言われていた。
それから数十年、リアルタイムで変化を経験するとその変化に気づかず過ごしていたが、「眼鏡」が「メガネ」にシフトすると、単なる医療器具という存在ではなく、ファッションアイテムとしての存在にもなっている。
その間に起きたことを箇条書すると、
・視力が悪い人が増えた
・ファッションアイテムとして市民権を得た
・ファッションリーダーが使い始めた
・視力が悪くない人も使い始めた
・レンズの進化で利便性とデザインの自由度が上がった
前回のエントリーで書いた「最期は一枚の絵になる」とは俯瞰で捉えることに似てると思い、その練習をしてるのがこのエントリーのつもり。
#asaJ_折々のことばバックナンバー#折々のことば
— ASA自由が丘(朝日新聞) (@ASAJiyugaoka) November 12, 2015
68. 年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる (中井久夫)
たとえ苦いものも笑って思い出すだろう。 pic.twitter.com/ODkLlWa9Gj
「眼鏡」からシフトして「メガネ」になって、次はどこに向かうのだろうかと考えていて、「もしや?」と思ったのがハズキルーペ。
カッコ悪いと思われてる老眼鏡が、視力補完という付加機能にファッション性も加え、ついでにシャレと話題性も持ち合わせていれば、思わぬ市場が拓けるかもしれない。
老眼鏡を使うことはカッコ悪いという意識が180度変われば、メガネの世界の伊達メガネのように、拡大鏡として、本来必要としてない人にも訴求できるかもしれない。
俯瞰で見たり、時間の流れを無視して1枚の写真に収めるという作業は、習慣にすると思わぬ発見があるかもしれない。