世間の人が何に「おもしろさ」を感じているかを検索して調べて、おもしろい話とおもしろくない話の違いを探ってみた。
おもしろさを感じさせるものには、おもしろおかしいという以外にも、「役にたつ」という意味や、「考えさせられる」というニュアンスも含まれることが感じられた。
感じ取れたことを箇条書きにすると、
・初めて聞く話
・知らなかった(忘れていた)ことを教えてくれる話
・わかりにくいことをわかりやすく教えてくれる話
・驚く話(事実は小説より奇なり的)
・感動を伴う話(フィクション、ノンフィクション問わず)
・気持ち良い話、表現が上手な話
などに分類できるという印象を受けた。
そして、「おもしろくない」は単純にこれらの逆だと言うことも感じられた。
・既に知ってる話(どこかで聞いたような話)
・わかりにくい
・独りよがり(共感が得られない、ノリが違う)
・不愉快(ツボが違う)
わたしが、おもしろいなと感じたのは、既に知ってる話だとおもしろくないと感じるが、既に知ってるはずの話の中に「再発見」が感じられると、おもしろさを感じる人が多いということだ。
この「再発見」には二種類があり、一つは新しい(隠されていた)事実が発見されるという場合で、もう一つは事実関係は同じでも視点を変えたり、表現を変えることで、受ける印象が全く変わるということに気付く(気付かされる)場合。
「おもしろい」を追い求めると、これまで無かったものを探し続けるか、既にあるものの中に再発見を見つけるかになりそうだと絞り込めそうだ。
しかし、世間の圧倒的に大多数の人は「再発見」よりも、未知の新しいものに意識が向いていると感じられた。
未知に意識を向けるというのは、言うのは簡単だが行うのは難しい、なぜなら既にあるものを知り尽くす必要があるからだ。
そこには、さまざまなジレンマが生じるはずで、未知へ意識を向けたいがその準備すらままならない人々は、知らず知らずのうちに後ろ向きな方向に向かい出すかもしれない。
それが一連のフェイク(ニュース)だったり、ウソの上に成り立つ詐欺なのではないかと思えてくる。
未知を追い求める姿は、一番手争いと同じになる。
研究や開発の分野での一番手争いは、イノベーションやノーベル賞に通じるだろうが、ビジネス分野だと先行者利益の独占という方向に意識が向かうだろう、M&Aが流行るのもその一環だ。
先行者が利益を独占できるというのは投資の世界でもお約束だから、儲かりそうな投資先に、誰よりも先に飛びつくことが重要だという強迫観念に苛まれやすくなる。
そしてなによりも今の世の中は未知の領域に簡単に手が届かないのだ。
冒頭で、「おもしろい」と感じる条件に、
・気持ち良い話、表現が上手な話
と強調した理由は、
世間の大多数は未知を意識しながらも未知には意識が向かわず、その手前の「おもしろい」に踊らされていると感じたからで、その際のキーワードになると感じたからだ。
既にあるものを知り尽くしている人が、表現の上手さを持ち合わせていれば、自身は「おもしろくない」と感じてる既に知ってる話を、踊らされる人は「未知のおもしろさを秘めた話」と思い込まされるだろう。
ブログレベルの世界でも、サロンを主催する人とそこに集まるサロン生の間にこの図式が成立していることが感じられる。
なぜ、ブログのサロン生のような間違った行動を取るのかというと、「未知」を意識しすぎるからだ。
活路を拓くためには、未知の追求しかないと思い込むからだ。
純粋に未知に向かって良いのは、ごく一部のその内のほんのひと握りの人だけだ。
そういう人は、自分自身が立ち向かっているものが未知だなんて思っていない、出来て当然のこととして取り組んでいるので試行錯誤はあっても迷いはない。
試行錯誤が必要なのは全ての人にだが、そこに迷いが付きまとうわたしのような凡人は、「既にあるものの中に再発見」を意識する方が良いはずだ。
ここまで書きながら、結局わたしが言ってるのはコロンブスの卵みたいな事に思えてきたが、念のために「コロンブスの卵」で検索すると、このことばを知らないという人がそれなりにいることがわかった。
検索して実は再発見があった。
わたしが思っていた話は、
コロンブス:「この卵を立ててみて」
何人もが挑戦したが、
挑戦者全員:「できません、難しい」
コロンブス:「こうやればいいんです」
と殻の端を割って卵を立てた
挑戦者:「そんなの簡単じゃん、ずるいよ」
コロンブス:「何事もやってみせると簡単に見えるんだよ」
という話だと思っていたが、
この話には卵が出てくる前があったのだ。
アメリカ大陸を発見したコロンブスは、その功績が賞賛されることを妬まれて、「船に乗っててたまたま見つけただけだろ」と言われて、卵の話につながっていたのだが、この部分は完全に忘れていた。
コロンブスの卵も知らないなんてバカな奴がいるもんだと思って調べた結果、自分も差がない存在だと再発見があった。
AIやコンピューターがどういう発達を遂げようと、彼らは自ら「再発見」なんてすることはないはずだ。
そう考えると、「再発見」は人間の特権かもしれないと思えてくる。