ムカつくことを、皮肉を込めて笑いに変える力が、川柳にはある。
由来を遡ると、お上(政治)に対する不満になるようだが、そういうところは今も変わってないなと感じられるが、それ以上にムカつく相手が自分自身になっているようにも感じられる。
だからだろうが、川柳には社会風刺のようでありながら自虐ネタも多い。
そのせいかどうかは不明だが、わたしには、日本人が困った時に笑う(=笑ってごまかす)という他国の人には理解不能な反応をすることが、川柳的なことば遊びに由来してるような気がしてならない。
川柳とは、俳句から『季語』というルールを取り去った自由なものなのだが、不思議なことに自由が与えられるとネガティブな投稿が増えるのだ(もちろん笑いにつなげるのだが)。
一方、季語に縛られた俳句では、心情や風景を描いて表現するが、そこでは暑い寒いなど川柳ならばネガティブな笑いで表現される部分が、風情や情緒で彩られるようになり、ネガティブ要素が格段に減っていることが多い。
桜の季節になると、花見で盛り上がる人は大勢いるが、季節を楽しんでいるだろうか?
他の季節も同様に、写真など『映え』を意識することはあっても、どれだけ季節を感じているだろうか?
生活の身近から季語が無くなっているようにも感じられる。
季節を受け入れるからこその季語なのだが、季節を受け入れるとは、変化を許容しその変化に対応することだが、季節を受け入れられないと、生活の中でちょっとしたことが不平不満につながり、対応ではなく対処するようになる。
つまり、自分は何もしないで、周りの環境を変えようと考えだす。
便利や快適は、その結果築かれたものだが、それは同時にネガティブな弊害も生み出していたのだ。
ここで取り上げた流れがもし当たっているならば、現代の日本社会のネガティブな要素は、生活から季語が無くなったために起きていると言えないだろうか?
季節を受け入れ、季語を感じるという、どうってこと無いことを忘れてしまっているために、些細なことに不平不満が増えているのかもしれない。
俳句が流行っているのも偶然ではないだろう。
季語を感じる生活は、美しいハーモニー(=令和)を奏でる力を感じさせてくれそうだと気付くと、今は変わり目として相応しいタイミングなのかもしれない。
こういう時は、自分自身が持ってる価値観の180度反対にヒントがあることが多い。
季節を受け入れ、季語を感じる生活は、不便を楽しむ生活かもしれないが、それは体を使うことを楽しむ生活と言えそうな気もする。
季語を取り戻す生活も悪くない気がする。