違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

さまざまな『その後』

久しぶりに松本清張の『目の壁』を読んだ。

 

わたしの最も好きな本の一つで、初めて読んだのが中学生の時、それ以降何十回となく読んでいる。

 

ストーリーなんか分かりきってるのに何度読んでも読み飽きないのは、脳内で映像化されてるからのような気もするし、初めて読んだ中学生の頃の気持ちも思い出されるからのような気もする。

 

会社を舞台にした企業詐欺から話は始まるので、初めて読んだ中学生の頃は理解は浅かったはずだが、描かれているのが人間模様だからか感情移入できどっぷりと自分の身に起きているかのような緊張感と緊迫感に浸れるのだ。

 

ドラマ化や映画化もされてるようだが、古いものばかりでわたしは見たことがないので映像化された世界は全て脳内の空想だ。

 

 

 

 

この本は詐欺事件から始まった物語を描いているのだが、今回読んで思ったことは、実際に詐欺の被害にあった場合の当事者の心理としては、始まるのは『その後』なのだろうなと思えた。

 

 

すぐ忘れられる『その後』もあれば、いつまでも尾を引く『その後』もある。

 

最近、『その後』を巡って揉めてる話題がある。

 

江川紹子氏 池袋暴走被告叩きに問題提起「加害者家族を苦しめるのは『社会』の人々」

「事実確認もないまま、共犯者であるかのような非難にさらされる日々。終わりなき社会的制裁に、加害者の家族も苦しんでいる」として、批判に苦しむ同事故の加害者家族を取材した記事を引用。

 

 

このことの是非を言いたいわけではない。

 

言いたいのは『その後』は多様だということ。

 

事件や事故が起きた場合、被害者と加害者がいてそれぞれに『その後』があるのだが、『その後』はそれぞれの家族の一人一人にもそれぞれ訪れる。

 

 

 

ついつい安直な被害者や加害者という見方しかできなくなってしまいがちだが、『その後』には次のようなものもあるのだ。

 

 

 

瓦礫の山で見つかった娘。「行方不明」の子を捜し続ける父親たちの思い

2528人。東日本大震災から10年が経とうとするなか、いまだに行方不明者となっている人たちの人数だ。

 

 

上野さんは、いまも倖太郎くんを捜し続ける理由について「親の最大のつとめは子どもを守ること。それができなかった親は、最低の親だと思っています。抱きしめて、謝らないといけない」と語った。

「震災後に生まれた次女は、長女や長男の年齢を超えました。たったこれだけの時間で終わってしまったんだと、ふたりの人生の短さを、次女の成長を見てすごく感じています」

「でも、亡くなった子どもたちには、天国に行けば会えると思っているんです。いつか僕の寿命が切れた時に、子どもたちがパパと言ってくれるんじゃないかと。それが、ものすごく楽しみでしょうがないんです」

 

 

 

冒頭で紹介した本は、自殺した上司がなぜ死なねばいけなかったのかと真相を追いかけた部下の物語だが、正義感などが動機ではなく、むしろ贖罪の気持ちで動いていて、その気持ちは上司一人に苦しみを押し付けたという思いから生まれていた。

 

 

どんな人の人生にも、そんなことがという『その後』がありそうな気がする。