①明らかにウソと知りつつ、②騙すことを意図して発せられる情報がある。
これらは、悪意を前提にしたもので、一般的には詐欺がこれに該当する。
では、明らかにウソだとは思わずに発される情報や、騙す意図など無く発される情報は、どのような性格を帯びるだろうか?
フェイクニュースというワードが現在の意味で使われるようになったのが2016年から。
アメリカ大統領選だけでなく、健康に関する情報にウソが目立つという指摘が頻繁にされるようになったのが2016年。
ウソの情報に騙されないためには、情報の真贋を見抜く必要があり、そのために役に立つのが根拠や証拠やエビデンスであり、一人一人がそれらを身に付ける必要があると言われ、必要とされることはリテラシーと一括りにされていた。
フェイクニュース というのは、当初悪意を持った者が意図的に仕掛けると思われ、それに対抗するのがリテラシーだと思われていた。
悪意を実行するためには、確信と意図が必要になる。
確信と意図が曖昧だったら、悪意は実行されづらい。
フェイクニュースということばが広まり始めた頃、フェイクは悪意の元に発信されると思われていたが、その後の動きを見てると、むしろ悪意とは関係無いものが非常に増えている。
情報の伝わり方には、情報の発信者から直接聞く(一次情報)場合や、発信者から直接聞いた人から聞く場合や、発信者とは無関係に伝え聞く場合がある。
取材は一次情報に該当すると思われがちだが、現代では取材には取材する記者やメディアの価値観が色濃く反映されるという意味ではかなり偏ったものになり得るので、悪意と紙一重のことが珍しくない。
取材が作り出す悪意は、ウソやフェイクよりも、取材そのものの在り方が不快感を与えるものが増えている。
先日の大津の園児死亡事故での園長への取材の在り方は多くの人に不快感しか与えなかった。
マスコミ勤務の人『同世代の記者の多くはもう遺族取材やめたいって言ってるしそれが苦痛で何人も辞めた』→昨今のワイドショー的報道についての意見など色々
情報は内容や中身で判断されるものだと考えると、真実が基準になる場合とその情報の持つ影響力が基準となる場合という二つの評価軸が現れてくる。
昨日、情報にも『大は小を兼ねる』や『過ぎたるは及ばざるがごとし』があると書いたが、今回のエントリーを書いていて、情報には発信者の意図が反映されて伝わる場合と、一旦発信されてしまえば後は情報が独り歩きする場合もあるなとも思えてきた。
本来の情報には形も色も匂いも無い。
情報に形や色や匂いを与えるのは人間だが、情報の形も色も匂いも伝達経路が増えるたびに、その形や色や匂いを変えて行く。
どういう理由で情報が形や色や匂いを変えるかには大きな興味があるが、その理由が分かっても分からなくても、情報が都度形や色や匂いを変化させながら人の間を伝わって行くことだけは確かだ。
この情報が持つ特性を正しく理解できていないから情報に絶対性を求めるのかもしれない。
全てのニュースは程度の差はあれ、伝達経路が増えるたびにフェイクニュースと化して行くのかもしれない。
だとすると、歴史の教科書や研究が伝える過去の事実と伝えてることは実は全く違ったものだったのかもしれない。
情報が伝達される度に変化することが必然であるにも関わらず、
情報に普遍性や絶対性を求めているとすれば、それが間違いの元と言えるかもしれない。
これから未来にかけて出て来るウソは、普遍性や絶対性を演出するためには理論武装されてくるのは間違いない。
根拠や証拠やエビデンスが豊富な情報ほど、少し冷めた目で見る必要があるのかもしれない。