違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

失言は本音!?

先月4月17日に亡くなられた漫画家の小池一夫さんは、その少し前に次のようなツイートを発していた。

 

 

 

このツイートの後でも相変わらず国会議員の本音の失言は続いている。

 

本音にも様々あるが、言えば失言になる本音には普段はブレーキがかけられているのかもしれない。

 

言っても大丈夫な人だけを選んで喋っていたり、喋る際には何らかの保険をかけているだろう。

 

そんな保険は、配慮と呼ばれたり、計算と呼ばれたりするが、そんな保険が機能しない場合がある。

 

 

本音に保険をかける場合の無難な方法として、わたしも活用するのが、他人の言葉の引用だ。

 

しかし、引用する場合には注意点や覚悟が必要になる。

 

 

 

誰かの失言が、別の誰かの本音であるような場合、失言は本音の代弁となる。

 

この構造に人間関係の上下関係が介入すると、失言の大元に忖度があることが想像できる。

 

 

たった一言、されど一言!

 

一言から始まる関係もあれば、一言が原因で終わる関係もある。

 

人を救う一言もあれば、人にトドメを刺す一言もある。

 

いつまでも覚えてる一言もあれば、すぐに忘れる一言もある。

 

嫌われる一言にはデリカシーが無く、好かれる一言には思いやりがある。

 

 

さまざまな影響力を持つ一言には、嘘と本当がある。

 

結果が良ければ、嘘も方便と言われ、決して悪いことではない。

 

 

本音が悪いわけではないはずだが、失言をした場合は、その失言は本音だと烙印を押されてしまうとするならば、本音は隠すものやオブラートに包むものになるのは自然な流れだ。

 

 

 

 

 

勝ち誇ったように、『失言は本音だ!』と責め立ててると、巡り巡って良くない流れが生まれるのかもしれない。

 

 

今まであまり意識したことなかったが、『罪を憎んで人を憎まず』ということは考える価値があるのかもしれない。