大きな本屋に行って、ビジネス書や自己啓発本のタイトルを見ていると、タイトルに『バカ(アホも含む)』と銘打った本が意外と多いことに気付く。
いくつか上げてみると、
ビジネスや自己啓発ではないが、こんな本もある。
Amazonの本の紹介は、バカの説明や定義になっていると思われ、このように書いてある。
相変わらずバカがのさばる世の中だけど、これ以上、黙ってみてるのはゴメンだね。
「男女の関係はあったのか?」なんて事を聞く芸能レポーター、
「この責任をどう取るつもりか」と偉そうに語るコメンテイター、
「やりたい仕事が見つからない」と口先で嘆くだけの若者。
迷惑なバカから笑えるバカ、愛すべきバカまで、バカを肴に芸論や人生論を語り尽くす。
原点回帰の毒舌全開、ビートたけしの「バカ論」!
私にとってタイトルに『バカ』と付いているが大真面目な本の代表格は2003年に出版された養老孟司先生の『バカの壁』だが、この本では「話せば分かり合える」なんていうのは錯覚で、分かり合えない者同士は互いをバカだと罵り合うというようなことが書かれていた。
バカというワードは、自分に向かって使われると不愉快であり怒りすら覚えることもあるが、他人に「バカ」と言う人間も周りの人達から品性を疑われるような言葉だったが、令和時代に入ると完全にありふれた日常用語として、TPOを考えずに使われる言葉になったような気がする。
インターネットの発達とSNSの普及で、それ以前には情報は受け取るだけだった人の大半が発信者になることができるようになった結果、世の中には嘘が溢れるようになった。
嘘が増えても信じる人がいなければ何も問題は無いが、嘘を信じる人が増えていることが現代の特徴になってしまった。
そしてそう言う流れが、読解力の変質を招いてしまったのだ。
ずっと昔に遡ると、バカは根本的に知識や情報を持っていなかった。
しかし、現代では誰でも豊富な知識を持っている。
差がつくのは、その知識を解釈するための読解力の有無だ。
読解力のレベルが近い人同士は共感し合いやすいが、読解力のレベルが違いすぎるとお互いをバカだと感じる。
昔のバカはグラデーションを描くようなもので、点数や偏差値で序列化された下位を指していたように感じるが、現代はあるテーマに関しての意見や考えの差が大きい事をバカと呼ぶように変化しているようだ。
バカというタイトルの本が増えたことは、広い意味での敵対関係としてのバカが日常生活に増えているから、共感を得るためのキーワードして機能してると思えてくる。
バカというキーワードが機能すればするほど、意見や価値観が一致するということが貴重になる。
逆に言うと、バカを相手に説得を試みるというのは徒労感が大きな作業になるという覚悟が必要になりそうだ。