答えはいくつあるのか?
最近の学生はプロセスや過程はどうでもいいから答えを教えてくださいと言うことが増えてると聞く。
いや学生だけではなく社会人でもだ、問題や問いや課題に対して答えだけを求める傾向が強いと聞く。
時代のせいなのだろうか?
それとも日本だからなのか?
本当なのかどうかはさて置き、成功者の言葉が深い意味を持つのは当然だが、その成功者がその言葉に辿り着くには長い年月を掛けて試行錯誤や失敗を積み重ねているからとしたら、答えとなるのは言葉の方ではないようにも感じる。
同じことが理系or文系にもあるような気がする。
日本で生まれ育つとごく自然に分類するのが理系文系だが、例えばアメリカでは数学や経済学は音楽や芸術と一緒のartで括られると知ると、分類そのものが質的に全く違うということが分かる。
日本でいう文系の中心には国語があり、理系の中心には算数や数学がある。
自分の子供時代及び学生時代を振り返ると、どの科目でもテストの問題は答えが一つというのが基本だった。
算数や数学の答えが一つというのは誰にとっても当たり前だが、国語の問題で漢字の読み書きが答えが一つなのは理解できても、文章の読解の解釈は一つではないのではという疑問を感じることは少なくなかった。
国語に対してそのような思いを持つと多分国語が嫌いになり、算数や数学にすっきり爽やかなイメージを持つようになる。
こうしてわたしは国語が嫌いで算数や数学が好きだからという理由で理系だと思い込むようになった。
科目の好き嫌いには先生に対する思いも大きく影響するので運不運があるとも言えるが、それを含めて運命であり最終的には自分に跳ね返ってくるという意味では自己責任でもある。
今更ながらバカなガキだったなと思い知らされる、後悔先に立たずに似た思いだ。
今だったら分かることに、10代を国語に苦手意識を持ったままにするべきではなかったなということがある。
幸か不幸か日本で生まれ育って日本語を使う者にとっては、すべての思考は日本語で行っている、たとえそれが算数や数学であろうと。
苦手科目ができる場合、結局それは国語力の不足に始まっているのだ。
現代社会には、答えが一つしか存在し得ないことと、複数の答えが存在し得ることとがある。
複数の答えが存在し得ることの場合は、答えそのものよりも答えに至るプロセスや過程の方が意味や価値は大きい。
答えが一つしかない場合は、本当に知ってる人が簡単に教えてくれるわけがない、そして複数の答えが存在する場合には答えそのものには意味や価値がないとするならば、答えを教えてもらうことは役に立たないか嘘でしかないのだから大した価値はないということになる。
結局、答えは自分で見つけるしかなさそうだ。
答えとコミュニケーションもよく似ている。
コミュニケーションも国語力に依存するのだ。
日本で生きてる限り、国語力が大事になるのだ。