心理学者メラビアンが1971年に提唱したのが、第一印象は最初の3〜5秒で決まり、そのほとんどが視覚情報からという概念。
日本でこの概念が普及するのはもっとずっと時間が経過してからだが、同じタイミングで世の中が生産性を追い求めるようになるにつれて、少ない文字数で内容を伝えることが求められるようになった。
最初はビジネスの場で起こったこの動きは、プレゼンをするような場では、プレゼン相手が経営者やキーマンのように地位や立場が上になればなるほど、少ない文字数や情報で重要さを表現することが求められるようになり、資料はA4サイズ1枚にまとめられなければもはや相手は内容を聞いてないし理解する気も無くなると言われるようになった。
こういう動きが当たり前になる前の段階で、読書離れ、活字離れ、と言われる現象が起きていて、それは軽薄短小化と呼ばれ揶揄されていた。
本を読まなくなったから文字数が多いと拒否反応を起こすようになったとも取れるし、忙しくて時間を捻出できない人に有効な提案をしたければ一目でわかる情報量にまとめなければいけなくなったとも取れる。
本や新聞から離れる人が増える一方でネット上の文章に接する頻度は増えているので厳密には起きていることは活字離れではないような気もするが、TwitterやLINEのように短文でのコミュニケーションが増えていることも、長文離れを加速させてるように見える。
文字数は増えれば増えるほど説明的で解説的になる。
経営者へのプレゼンで文字数の多さが敬遠されがちなのは、説明や解説が多いと直感的な判断がし辛くなるからかもしれない、また説明や解説が多いと主導権を相手に取られてるという不快感もあるかもしれない。
文字数が少なければ表現する内容は結論が中心になるが、その表現の仕方には良くも悪くもセンスが現れる、というか隠せない。
少ない文字数での表現には、人となりが現れるのだ。
だから、相手の個性や感性を知りたければ短文でのコミュニケーションは有効で、好き嫌いの判断につながりやすいだろう。
それに対して長文の場合、説明や解説の仕方やまとめ方に信用性や信頼感が現れやすい。
同一人物の短文と長文を読み比べると、次の4パターンの判断の目安に役立つ。
- 好きで信頼できる
- 好きだけど信頼できない
- 嫌いだけど信頼できる
- 嫌いで信頼できない
ことばは嘘をつくことができるから1回だけでは分からないが、数度のコミュニケーションがあれば分かることは意外と多いのだ。
現代が過度に短文コミュニケーションが多いとすれば、好き嫌いなどの感性で反応することが多いということになる。
不足するのが信頼度を判断する理性の発動だとすると、必要になるのは長文でのコミュニケーションになるだろう。
逆に言うと、長文でのコミュニケーションが極端に少ないと理性が出番を失っていて、最悪の場合理性的な判断をしようと思っても理性的な判断ができなくなっているかもしれない。
現代は短文でのコミュニケーションに偏っているかもしれないが、相手のことを判断したければ、短文と長文の両方でのコミュニケーションが必要になる。