違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

『嫌い』を減らそう!

考えさせられるツイートが流れていた。

 

 

 

主義主張がはっきりすることは良いことだという思い込みがある、わたしには。

 

なぜそうなったかというと、もともと万事に関してあまりこだわりがないタイプだったが、それを優柔不断だと指摘されたからだ、ずっと昔の話。

 

そのことにかなりコンプレックスを持っていたような気がする、もう忘れたけど。

 

そういうことがあったからだろうが、自分自身のこだわりを出すために好きと嫌いのリアクションの違いをはっきり付けるようになった。

 

 

こういうことをやり始めると、人間関係も好き嫌いで色分けし始めるし、人間関係の部分は持ってる価値観や考え方と置き換えても似たような意味を持つだろう。

 

こういう振る舞いは、人間関係が介在しない純粋に個人的なことだったら問題はないかもしれないが、それ以外では疑問だ。

 

はっきりとした嫌いを設けることは、コミュニケーションとしては敵を作ることになりやすい。

 

わたしの場合、ラジオやテレビで音楽番組を聴くと、だいたい流れる曲の半分以上は嫌いなのだ。

 

もし、わたしに音楽番組のMCやDJのオファーがあったとしたら、かなり癖の強い番組しかできないだろうし、わたしと似たような感性を持つ人しか楽しめないだろう。

 

同様に、食べ物に関して海の生ものが食材として苦手なので、料理番組で海の生ものが出てくるとゾッとするので、もしわたしがそんな番組の司会をしていたら最悪だろうなと思う。

 

そんな自分をはっきり認識すると、音楽番組や料理番組でどんなものが出てきても、それらの全てを好意的に受け入れられる司会の姿を見てると、本気で好きなら、好きのジャンルの幅が異様に広いんだろうなと感心するし、職業意識で割り切ってやってるとするならそのプロ意識も大したもんだと思ってしまう。

 

 

理由はどうであれ、好き嫌いがはっきり分かれると、嫌いに遭遇するとアドレナリンがドバドバ出てくるイメージがある。

 

アドレナリンは、危機に際して闘争か逃走かの判断に影響すると言われるが、闘争心に着火すると怒りや攻撃性として作用する。

 

 

こんな時代だからこそ、嫌いを減らすことには価値があるかもしれない。

 

嫌いなものを好きになれというのは無理だとしても、嫌いゆえに生じる敵意に対して無関心でいることは練習すればできるような気がする。

 

 

おそらく、好き嫌いがはっきりし過ぎて自己嫌悪を持ってる人は意外と多いような気がする。

 

好き嫌いがはっきりすることは、優劣意識につながりやすく、無意識の差別につながる。

 

 

嫌いを減らすともう少し楽になるのは明らかだ。