違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

『コトバのあなた☆マンガのわたし(萩尾望都)』が教えてくてたこと!

表現としてことばを用いるか、あるいは写真(静止画)や動画を用いたり併用することによる違いは、どのように説明されたり解釈されるのだろうかという興味があった。

 

もちろん、そんなこと一人一人が自分なりに感じれば良いことだとはわかった上での興味だ。

 

そういう気持ちでずらりと並んだ本のタイトルを見てる中で、そそられるタイトルがあった。

 

『コトバのあなた☆マンガのわたし』萩尾望都 対談集

 

 

萩尾望都の対談集コトバのあなた☆マンガのわたし、この本は2012年に出版されてるが対談の中身は1980年代になされたもの。

 

この対談の中で印象に残った部分を紹介したい。

 

きっと、ビジネスにも遊びにも活かせることばとなるでしょう。

 

 

吉本隆明との対談(1981年)。

 

〜〜〜

 

萩尾

友達によると、小説を読むにしても、小説だけを読む人と小説を通りこして作家を読む人といますけど。わたしはちょっと、ああ、そういう読み方もあるのかって感じで。

 

吉本

ご自分はどちらですか。

 

萩尾

わたしは小説は小説だけ読むという感じです。あと作家を見たかったら、別の方向から小説を全部読んでまとめて換算するとか、そんな感じになります。

 

吉本

絵を表現される場合はどうですか。つまり萩尾さんはどう読んでもらえばいいわけでしょうか。両方読んでもらいたいってことでしょうか。

 

萩尾

いや、わたしはけっこう、とか言って。その手前ぐらいでいいです(笑)。

 

吉本

作家ってのは一般に、批評に対する関心ってないんですよ。

 

萩尾

これは時々遊びでやるんだけど。自分でマンガ描いてて、自分が今、何を描いてるのかって不意に不安になってね、第三者の立場で評論やり始めるわけですよ。で、一人だけやっても心もとないから、十人ぐらいまとめてやるわけです。たとえばストーリー性についてとか、キャラクターの特徴についてとかって、パーッとやるでしょう。そうしたら結局いろんな人の長所と欠点が並ぶわけだから、その中に自分のも入ってる。ああ自分のはここが悪いんだな、あそこが悪いんだなって、きれいにわかるわけ。じゃわかったから次からなくなるかというと、そんなことじゃぜんぜんない。バッチリ、何作描いてもちゃんと欠点はあるわけです。あの人はこういう良いやり方をしている、自分だってそれぐらいのことはできそうなもんだから、こう描けば欠点も隠れていいんじゃないかと、頭ではわかるわけね。文章にしてみると。でも実際に自分がつくる段階においては、ぜんぜんそんなことはできない。同じような歩き方はできない。だからわたしはもう評論はやってもだめだ。

 

(中略)

 

だから映画なんか観て、あれがどう、これがどうって映画評論家の人なんか言ってて、言うことはとってもわかるんだけど、わかったにしろ、つくるほうの人は、耳で聞いたとおりにはつくれないと思うわけ、ほんとに。自分がそうだから。

 

吉本

そりゃそうですね。

 

〜〜〜

 

 

 

 

野田秀樹との対談(1987年)。

 

当たり前のことを言ってるだけなのに新鮮な印象を受けた。

 

〜〜〜

 

野田

でも、いいですよね。(マンガ)は気に入った通りに動かせて。時々そう思う。本物の人間を演出してると、何で背中が曲がるんだ、この野郎(笑)とかさ。こうだろ、こうだろって時に、マンガなら描けるわけよ。

 

萩尾

確かに(笑)。だから本当に演出って体力使って、竿全部持ってるようなもんでしょう。釣り糸のついた竿っていうと変だけど……。バランスが大変だなーって思うんですよ。

 

野田

でもとりあえず、こうしたいってことを決めといて、こうだからっていうのが最初にあると納得しますね。たとえば役者。こういう衣装着たいとかあるわけ。「いつもこういう衣装着せられてるから、萩尾さんの作品だったらきれいなドレス着せてもらえるんじゃないかと思ったけど」って言うから、「いや白でいくから」(笑)……。それ以上のこと言えなくなるわけ。これは白がきれいなんだって……。でもやっぱり、それはそうなんですよ。あかり(照明)なんかも白はいちばん嫌うんですよ。はねるから……。でも、白でいきたいとなればそうする。だから、あかりなんかにいつも苦労かけてる。たとえば、上から何かモノを落としたいとすると、その部分だけ照明機材を吊れないわけです。すると、(あかりは)横からになる。最終的にいえば、その落としたいモノがどれだけの効果を出すか、という話になってくる。

 

(中略)

 

萩尾

そういう風に理解してもうために、10人、20人からの人を動かすとなると、言葉が問題になってくるでしょう?

 

野田

言葉というか……。声の大きさでしょうね(笑)。

 

(中略)

 

野田

うーん、でも、たとえば戯曲の盲点をつかれた時なんか、答えられませんからね(笑)。「うーん、そうだな。矛盾してるな」なんて、しゃあしゃあと言える方がいいんじゃない?「ホントだ、矛盾してる」なんてね(笑)。次までに考えとくしか言いようがないですからね。

 

萩尾

役者さんが、そう言ってくるわけ?

 

野田

矛盾してるっていうか、向こうも遠慮しいしい言うんですよね。「ここはこうなるんですよね。ここでこうすると、何かちょっと変な気がするんですけど」とか……。ホントだなーなんて(笑)。

 

萩尾

あ、でも、それってすごくいいですよ。なまじ言い訳したり、作ったりするよりは……。役者さんも安心するんじゃないかな。だって監督さんによっちゃ言い訳する人いるでしょ、わかってなくて。だんだんイライラしてきますよ。

 

〜〜〜

 

 

今となっては一昔前に感じる2012年に出版された上に中身は1980年代の対談とあっては古臭いだけでもおかしくはないのだが、一周も二周も回ってなお新しい発見が得られるような中身だと感じられた。

 

 

萩尾望都さんはあとがきでこう述懐してます。

 

〜〜〜

 

80年代。

わたしは30代になり、読者対象としていた少女達からはオバサンの歳になりました。児童マンガは回転の速い職業です。対象年齢に作家が近いほど、共感性が高いのです。流行語ひとつとっても、カルチャーが近いですから。

 

オバサンになった私は、少女マンガはもう無理だから、……、と思っていたら、

 

(中略)

 

少女マンガを卒業しない読み手がだんだん増えていったのです。

 

〜〜〜

 

少女マンガを卒業しない読み手が増えたということは、変化しない人が増えたということなのか、それとも変化した結果なのか。

 

時代の変化や、社会の変化、周りの人の変化には気付きやすいが、自分も変化してることには案外気付きにくい。

 

そしてそれ以上に、人には変えようと思っても変われない部分が誰にでもあると分かったことが新鮮だった。

 

今回は、わたしの守備範囲には全く存在しなかった世界だったが、思った以上にわたしの興味と重なっていておもしろかった。

 

 

 

 

この対談はシリーズになっているようで、1990年代は、

 

 

 

2000年代は、

 

 

 

自分の守備範囲に無いものには思わぬ発見や気付きが隠れてるかもしれない!