今日、おもしろいことを知ってしまった。
いつの頃からか多様性の時代などと言われるようになったが、このような言い方が始まったキッカケというか由来は、あの悪名高い『ゆとり教育』にあるらしいのだ。
ゆとり教育は失敗だったと否定されているが、ゆとり教育が産み出した『個性を重視する』という価値観が『多様性の肯定』につながったらしいのだ。
ゆとり世代の作家の朝井リョウさんがこのようなことを言っていた。
「家族もいない、仕事もない、友人も恋人も何もない、自分の存在をどうしても実感できない――そう思い悩んでいたとき、『多様性の社会だからそれでいいんだよ』なんて言葉を投げかけられたら、私はその人のことを傷つけてしまうかもしれない。多様性なんてどうでもいいから数値化できる生産性をくれよ、と、思わない自信がない」
ゆとり教育は過度な競争を煽るのではなく、「ナンバーワンよりオンリーワン」と個性や自由を追い求め、順位で位置付ける窮屈さを無くそうと始まったものだったが、当事者には別の苦悩や葛藤が生まれていたらしいのだ。
それは、明確な基準でジャッジされることが減ったので逆に自分がどこに位置してるのかが分からなくなるため、その基準すら自分で作らなければならなくなり、しかもそういう悩みは親を含めて歳上の世代は未経験なので適切なアドバイスももらえなかったのだ。
朝井リョウさんは、そういう状態を地獄と言っている。
ゆとり教育は否定した現代だが、ゆとりが産んだ多様性は肯定され生き続けている。
ゆとりを否定した多様性が拠り所にしてるのが生産性で、朝井リョウさんはゆとり教育に欠けていたジャッジの役目を生産性という尺度が担ったと感じているようだ。
そんな多様性を受け容れた現代は、格差の拡大が進行している。
格差の拡大などと言われると、社会や歴史の授業で聞いた資本家と労働者という対立の図式が頭に浮かぶ。
しかし、多様化の時代というだけあって、この図式にも多様性が訪れている。
現代では、資本家>投資家>経営者>労働者、と位置付けられるらしい。
生産性という観点でいうと投資家や経営者は、結果が問われる職人と位置付ける見方もあるらしい、その場合は、資本家>職人>労働者となる。
多様性は生存だけを目指すならば大してコストはかからないのに、労働者はメディアを通して資本家(上記の投資家や経営者や職人を含む)に洗脳され本来は不必要なはずの幻想(リア充などと呼ばれる)でしかないものを消費させるエネルギーを産ませている。
ことばで言うのは簡単だが、実際に労働者に行動を起こさせているのは見事な生産性の高さだと言えるだろう。
そんな資本家がうまく活用してるのがインフルエンサーと呼ばれる人種で、労働者からすると憧れの対象となるステータスも備えてるように錯覚させる。
一つ一つは知っていたことだけど、それらを結ぶとこのように感じられたのは朝井リョウさんの話に触発されたからだ。
朝井リョウさんはオードリーの若林さんとの対談本の中で、
『僕は、その場で、絶対にわかってもらいたい派ですね。だから作品の中で、めちゃくちゃ説明しちゃうんですよ。』
と言っている。
さらに、
若林
たとえばさあ、作品の感想が来てさ、自分の狙いと違うってことがままあるわけじゃん。そういうときって、「違うんだよおお!」って思うの?
朝井
めっちゃ思いますよ。僕が思うものと、違う受け取り方されてる。
若林
読めてねえぞ!って?
朝井
僕、右足→右手→左足→左手って順番に縛りつけて、最後に相手の頭を掴んでワアーって喋る作品を書くことがすごく多いんですよ。
わたしの受け取り方は果たしてどうなのだろうか?
実は、朝井リョウさんの小説はまだ読んだことがないので早速読んでみたい。