動機の形成には大きく二種類ある。
一つは具体的に何をやりたいかが純粋に自分の内側から湧き出すような場合で、主に自分の周りの人間関係以外の環境の影響を受けて動機が形成されるような場合。
もう一つは他人に影響されてで、憧れの誰かがいる、あの人がやってるから、あの人にできるなら自分だってと動機が形成されるような場合。
この両者の中間には、親に習い事をさせられてというような場合や、学校や職場で課題やテーマを与えられてそれに取り組んでるうちにというような場合がある。
どれが良いとか悪いとかではない。
ただ、動機の形成がどのようなタイプであれ一旦形成されればあとは夢中になるのだ。
今日次のような記事を読んだ。
平本蓮が引退か「死にたくないから退く」 SNSに長文投稿「強がるのに疲れてしまった」「期待はずれでごめんなさい」
この記事から動機の形成に関する印象的な部分を抜き出すと、
「自分が始めたことなのに自分で嫌気がさしてしまった」
「こんな生き方をしたいわけじゃなかった。もっと優しい世界しか知りたくなかった」
一旦形成された動機は次から次へと形を変え始める。
多くの人にとって生きるとはそういうことだ。
興味や関心から始まるのだが、その興味や関心が変化する、いや変質すらするような場合は少なくない。
やりたいことが複数あり、それらがトレードオフの関係にあるような場合、何を選択するか。
これは非常に大きなテーマだが、本来は他人とは共有できるテーマではない。
しかしながら、このようなテーマに答えを他人に求めることは少なくないし、専門家と称して答えたがる人もまた少なくない。
最近の大谷翔平さんの人気の揺らがなさにも関係してるかもしれない。
野球プレーヤーとして最高の成績を上げ、それに相応しい富も名誉も得てるが、だからといって野球以外、野球に関係するトレーニングやコンディション維持以外のことにはちっとも動機が形成されない、そういう点が自分にはできないことだから人気が揺らがないのかもしれない。
ここでいう人気は評価と置き換えても良い。
動機を形成するのは欲だと思われがちだが、実際には不満だ。
日本人に馴染みがあるのは除夜の鐘の108の煩悩だ。
煩悩は強く欲を刺激し動機に影響を与えるが元を辿れば苦しみだ。
計画的に苦しもうとする人はいないように、苦しみから逃れるための動機にも計画性がないとすれば、おそらく苦しみからは逃げられない。
本当はそんなことしたくない、だけどそういうことに夢中になっているのが現代人の悲しい姿かもしれない。