違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

正反対が正解!

『明日は我が身』、このことわざは他人の身に起きた不幸や失敗を受けて使われるもので、字面だけから見ると他人の幸せにあやかる場合に使っても良さそうだが、いわゆるラッキーな出来事には使われない。

 

 

他人の身に起きた不幸は自分の身には起きない、という心理的バイアスを戒めることわざとして存在してるのだ。

 

なんだかすごく日本的な感じがするが、似たニュアンスを持つものは海外発のものもある。

 

 

マーフィーの法則

「失敗する余地があるなら、失敗する」「落としたトーストがバターを塗った面を下にして着地する確率は、カーペットの値段に比例する」をはじめとする、先達の経験から生じた数々のユーモラスでしかも哀愁に富む経験則をまとめたものである(それが事実かどうかは別)。多くはユーモアの類で笑えるものであるが、精神科医や学者の中には、認知バイアスのサンプルとして捉えることが可能なものも少数あるとの見方もある。

 

 

どうやら共通点としてバイアス(=偏り)の存在が見え隠れすることに気付く。

 

心理的バイアスとは認知バイアスだが、これらは実生活の場では勘違いや錯覚として扱われるもので、全ての人がいざという時やピンチの時に陥ってしまう可能性に晒されている。

 

勘違いや錯覚は一人で起こすものだから、別の言い方をするならば、暗示にかかってしまうと言うと分かりやすいかもしれない。

 

さらに、外からの刺激で暗示にかけることを洗脳と呼ぶならば、上記に上げたものは全てほぼ洗脳だと言えることに気付く。

 

洗脳されたと言われると、さも恐ろしい目にあったのだろうと想像するが、実際には錯覚を起こした(=起こすような暗示が施された)だけであり、周りの人からは勘違いしてるか判断力に問題があると思われるだけだ。

 

 

さて、最近は世の中の表舞台でも詐欺や詐欺まがいのビジネスが増えている。

 

それらの多くが契約上の体裁は整えていたりする。

 

少なくとも整っているように装う。

 

 

これは、錯覚をおこさせやすくし、暗示にかかりやすくなるように作用する。

 

ピンチの時に味方になって欲しい法律の世界には錯誤という概念がある。

 

民法上の錯誤とは、表意者が無意識的に意思表示を誤りその表示に対応する意思が欠けていることをいう。表示上から推断される意思と真の意図との食い違いを表意者が認識していない点で心裡留保虚偽表示とは異なる。

 

日本の法律が解釈する錯誤は、表向きは被害者の味方だ。

 

 

日本の民法が錯誤を原則として無効とし表意者に重大な過失がある場合には自ら無効を主張できないとしている

 

 

しかし大きなハードルが課されている。

 

 

錯誤の立証責任は法律行為を主張する側にある

 

 

 

何かを新しく始めようとするときは、お客のためになることをやれば良いということが当たり前だったが、いつの頃からか何か新しいことを始めようとする場合に最も重要なことが法律を味方にすることになっている。

 

詐欺や騙しがそれなりの企業でも行われるようになったことと無関係ではないだろう。

 

表向きに掲げるコンセプトでは、お客を振り向かせることが出来なくなっている。

 

だから表向きには美辞麗句で彩られたコンセプトが並ぶが、実際には訴訟されても負けないギリギリのラインが狙われている。

 

このような場合、最前線の現場で働く社員は被害に遭うお客と同じ扱いで、守る対象ではなく切り捨てる対象とされている。

 

ブラック労働の現場には少なからずこのような背景がある。

 

〇〇ホールディングス(持株会社)という仕組みができたことで、一層その傾向が強まっている。

 

自分の所属する会社の系列に〇〇ホールディングスがある場合、ホールディングスに所属してない社員はほぼ間違いなく切り捨て要員だ。

 

〇〇ホールディングスとは、終戦後解体された財閥の復活だと言われているが、財閥が感じさせる格調の高さは感じられない。

 

 

ブラック企業やブラック労働が増える背景にあるものを考えていると次のようなことを思う。

 

時代の進歩は便利さや豊かさを増す方向に進んでいたはずなのに、最近は進歩が必ずしも便利や豊かさを増すことにつながっているようには感じられない。

 

これは、目指す方向が飽和状態になってるか、あるいは限りなく漸近線に近づいているかで、行き詰まりしかないのだろうと思える。

 

これは、描くベクトルが間違ってるから起きているのだ。

 

昭和の頃は、全員が同じ方向に向かうことは珍しくなかったし、そこには確実にベクトルが感じられたが、現代は同じ方向を向いていてもそこにはベクトルは存在しない。

 

全員が一つになるという大きなベクトルが無くなって、無数の小さなベクトルに分散している。

 

ビジネスや商売の原則はお客をたくさん集めることで、この理屈はフォロワーを大勢集めることにつながり、この理屈は多くの反応や反響を得ることにも価値を与えたのでいいねリツイートの数を誇ることにつながったが、これは昭和的な価値観に感じられる。

 

世の中は多様化しているということが本当ならば、一つ一つのベクトルは小さくなって当然。

 

小さな力に価値を見出すことが重要なのかもしれないと思えてくる。

 

正反対が正解、一度は考える価値がありそうだ!