Twitter上で『クリぼっち』がトレンド入りしていた。
クリスマスを一人で過ごすことを意味する表現だが、いつ頃から使われてるのかなとGoogleTrendsで検索可能な2004年以降で調べてみると、
「クリボッチ」ではなく「クリぼっち」で浸透しているようだ。
ことばとして世間に定着したのは2012年からと言えそうだ。
Twitter上で見るクリぼっちに関するものは、クリスマスを一人で過ごすことは残念なことのようなニュアンスの表現が多いが次のような見出しの記事もあった。
「クリぼっち」を寂しいと思わない人は約7割! 理由は「クリスマスだからといって普段と変わらないから」
クリスマスを一人で過ごすことは充実してないと思う世間はまだまだ多いが、クリぼっちが平気な人からすると特別なイベントで充実を演出することの方が違和感を感じているようにも見える。
イベントが終了した後に寂しさや虚しさを感じたことがある人は多いだろう。
それ以外にも、遊びでも仕事でも充実していたチームやプロジェクトが終了したり解散した後の虚しさを知ってる人も多いだろう。
まさに、充実の反対語は空虚なのだ。
クリぼっちを許容する気持ちの中には、空虚な気持ちを味わうくらいならつかの間の充実はいらないという気持ちもあるかもしれない。
お笑い芸人ナイツの塙さんがおもしろいことを言っていた。
ボケを潰す言葉が多すぎますね。ツッコミのほうが絶対勝つだろう、っていう。野球で言うと投高打低ですね。ツッコミの球種が増えすぎちゃって、それはもう打てないだろうっていうことですね。
今まではストレートとカーブぐらいしかなかったのに、カットボールとか手元で曲がる球が増えていて。もう怖くてボケられないんですよ。だって、ボケたら「こいつトガってる」「空気読めない」とか言われちゃうわけです。それはボケにとってはなかなか不利ですよ。
塙さんが語る『ボケとツッコミ』の関係が、『空虚と充実』の関係に思える。
対をなす関係というのは対等でなければバランスが崩れる。
充実を求め空虚は排除したい、と考える人は多いかもしれないが、充実の数(または量)だけ空虚は存在してるのだ。
昔、郷ひろみが「会えない時間が愛育てるのさ」と歌っていたが、会えないという虚しい時間が愛という充実を育てていたというのは私は共感できるのだが、これは現代では通用しないのだろうか?
充実した恋愛を求め、恋愛が成立するといつも連絡を取りいつでも会えることが、恋愛の充実の寿命を短くしてるとは考えられないだろうか?
生きてることが虚しいと悩む声は聞くことがあるが、人生が充実していて悩んでいるという話は聞いたことがない。
虚しさに悩む人は、自分が持っている充実が見えてないから悩むのだろう。
充実していて悩まない人は、自分が空虚と表裏一体であることに気付いていないのだろう。
このように考えると、人間はなんと平等なのだろうかと思えてくる。