由来を遡ろうとする時、それがもの(動物や昆虫なども含む)であるならば原産地や生産地や生息地などを知りたくなる。
人であるならば出身地や出生地を知りたくなる。
人に関しての出身地や出生地というのも昨今の風潮からすると重大な個人情報で秘匿の対象となるのかもしれないが、その人への興味や関心があれば気になったり知りたいと思うのは自然なことだとも思える。
ちなみに、出身地と出生地は日常会話ではあまり区別しないが、生まれた場所を指すのが出生地で、出身地とは一定期間を過ごした人格形成等に大きな影響を与えた場所と定義されるらしい、だから出生地と出身地が違っても不思議なないのだ。
このような延長線上で、遺跡の発掘などをイメージすると、出土した場所は明確だから場所に関する疑問はなにもない、ではその遺跡を特徴付けるのは何だろうかと考えると、出土した遺跡やそこから見つかった品々がいつの時代のものだったのかであり、形がバラバラになってれば元の形はどうだったのかであり、色だって変色してるとすれば元の色はどうだったのかなどが知りたくなるはずだ。
人間を含めて生き物の場合に限らず、ものであっても興味が由来に関する場合は、原点は場所や地域に関係するのに対し、原点となる場所は明確だが由来が不明な場合は、いつ頃のものなのかや元の形や色を想像したり推理しながら探ることになる。
そんな探る作業の最先端は科学技術を駆使したものもあるが、ここではもっとのんびりした情緒的な世界に焦点を当ててみたい。
観察映画という独自ジャンルを築いた相田和弘監督の作品に『港町』がある。
日本の夕日百選にも選ばれた岡山県瀬戸内市牛窓を舞台にした映画。
この映画は当初色にこだわった映画として撮影されたが、でき上がった映画はモノクロ。
その経緯であり葛藤をインタビューで次のように答えている。
牛窓を「観察」した映画 想田和弘監督 新作「港町」を語る 岡山県・瀬戸内市
4分50秒のあたりから白黒で撮った理由に触れる。
ざっと次のようなことを述懐として語っていた。
この映画は色が重要で、色にはこだわった、特に夕暮れの色には。
だから映画のタイトルは『港町暮色』と付けていた。
そうやってこだわり抜いてできた作品を観て「なんか違うな?」という想いが拭えなくなった。
そんな様子を見ていた妻が「じゃあ、モノクロにすればいいじゃん」と言った。
「なにを言ってるんだ、こんだけ色が重要だと言ってるだろう」と思ったが、他に打つ手も浮かばないし、追い詰められていたので色を抜いてみた。
そしたら、とてもおもしろくなっていた。
その結果、色と共にタイトルから『暮色』を抜いた。
モノクロにした途端に、虚構性が高まり抽象性が高まった、その結果どの時代のどこの街なのかが分からなくなった。
見ようによっては200年前の世界にも見えるし、見ようによっては200年後の世界にも見える、時空に浮遊してる感じがして夢のようでもあり違う次元に行った感じがした、ドキュメンタリーでありながらそういう世界が表現できたことがおもしろかった。
※一般的なドキュメンタリーは制作者の主観を強く反映する。
現実の自然界には実に多様な色が溢れている。
しかし、人間がアウトプットとして色を自在に使えるようになったのは最近のことなのだ。
写真やテレビは当初白黒の世界だったが、徐々にカラーが浸透していった。
染料や塗料や絵の具だって今のようにラインナップが充実したのは最近のことなのだ。
だからだろうが、白黒で表現される世界には古臭さが感じられる。
前半部分で、場所は明確だが由来が不明なものに関しては、形と色といつのものかが気になる、と書いた。
逆に考えると、
- かたち
- 色
- いつ
の3つが確定するとイメージは具体的になると言えるし、どれか一つが欠けるとイメージは彷徨い続けるように感じられる。
分からないことが不満だったり、分かることが目的の場合には、この3つは確定させなければいけないが、謎や不思議を楽しんだり、味わいたいと思うならば手っ取り早いのが色を抜くという作業かもしれないと気付く。
色を上手く抜くと、『いつ』も変化する。
急速にテクノロジーが可能にした、なんでも付け加えたり掛け合わせることの多くは、完成度が高いが故におもしろさも奪い去ったように感じられる。
押してもダメなら引いてみろのように、足したり掛けたりするだけでなく、時には抜いてみるというのもおもしろいかもしれない。