『たった一つの〇〇』や『△△のためのたった一つのXX』というタイトルはずいぶん古臭い気がするが、最近でもビジネス書や自己啓発書によく見かける定番のタイトルでもあるし、ネット上の記事でもタイトルに付けられているのをよく見かける。
いつ頃からなのだろうかと調べたが正確なことはわからないが、音楽や曲のタイトルに付けられたのが最初のキッカケのようにも思える。
ところで、わたしたちが『たった一つ』と銘打たれたタイトルに気付く場合は、供給または露出が多いから気付くのだが、供給や露出が多いということは、おそらく需要も多いからなのだろうと想像できる。
しかし、GoogleTrendsやキーワード検索予想アプリを使っても特筆に値するような動きは感じられない。
需要があるのに、GoogleTrends等に反映されないとすれば、検索の時点では、検索してる人は『たった一つ』というキーワードに目覚めていないのだ。
別のキーワードで探している途中に出会って惹かれるのかもしれないと思えてくる。
ところでTwitterやネットを検索すると、最近は書評というジャンルが定着してるが、その背景には、本を買った人が読まないで放ったらかしにしたり、読まずに転売したりする人が多いからという事情があるという指摘もある。
じゃあ、なぜ買うのかというと、気持ちの盛り上がりのピークが購入時で、タイトルがその盛り上がりに一役買っているということらしいのだ。
つまり、買っただけで満足してる人が多いのだ。
タイトルにはこだわってるが、コンテンツにはこだわってないものが本当に増えているのも、そのせいだろう。
タイトルだけで選ぶ人たちが、リアルな本屋やネット上を漠然と探してる時に、『たった一つ』に偶然出会って反応してるのだとすると、検索のキーワードのデータに反映されなくても不思議はない。
『たった一つの…』には、一つだけだったらやれそうという錯覚を誘うからだという説もあるが、そもそも急速に拡大したグローバリズムは一物一価の一義性に支えられるという大前提がある。
一物一価の一義性は、デジタルに必須の要素でもあるが、生き物のようにアナログな存在に無理に当てはめても成り立たない。
文化や宗教の違いを越えてグローバル化が浸透した背景には、文化や宗教とはバッティングしないシンプルな価値観が共有される必要があるが、それが一物一価の一義性なのだ。
その一価を明示的に示すのが『たった一つの…』というタイトルなのだ。
また、以下のような錯覚も起こりやすくなる。
一義的に定義してから話を始めることを、本人は科学的な態度だと思い込むが、実際にはコミュニケーションを遮断することになる。
一義的に定義されることは、多様性や変化を受け入れないことにつながりやすくなる。
その一義がうまく自分の価値観や主義主張と合えば都合が良いが、合わなければ居心地は悪くなる。
養老孟司先生が東大に見切りを付けたのも、東大生から一義性を求められたことがキッカケになっているという話を思い出す。
昆虫が大好きで解剖医の養老孟司先生の目には、生き物は全て同一種であっても違っていることが当たり前なのだ。
自然と向き合って生きてる人も同じだろう。
『たった一つ』に限らず、意味や内容を限定することは生産性や効率を追求する場合には重視されるが、『たった一つ』にこだわり過ぎると『たった一つ』が上手くいかないだけで不幸を感じるようになるだろう。
『たった一つ』には、人を不幸にする魔力がある!
絶対上手くいくたった一つのことは、『たった一つ』にすがらないことだ。