昨年の年末に次のように銘打たれた記事が出ていた。
内容的には、東京を経由しないでダイレクトに地方と地方が結び付く需要があるという話。
この記事のタイトルに触発されて思い出したことがある。
それは、新幹線の駅ができた都市は東京のミニチュア化が進むという話で、昭和の話だ。
新幹線の駅ができた地方都市にとっては物理的な距離は変わらなくても、移動に要する時間が短縮化されることで、実質的な物理距離の短縮化が実現されることになり、東京から入ってくるものや情報が一気に増えることになったはずだ。
しかし、徐徐に時間をかけて、入ってくるものよりも出ていくものに悩まされることになっていった。
人やものの経由地として機能するようになったからだ。
周辺のさらに地方からは集める機能が働くが、そんな周辺の地方からは出ていくだけになってしまう。
やがて、新幹線の駅の周辺でも流出過多が目立つようになる。
地方を主語にすると流出だが、東京を主語にすると流入であり、その様は一極集中と呼ばれるようになっている。
この現象は、新幹線だけでなく、高速道路にも当てはまる。
インターチェンジ近くに工業団地が出来たりするが、グローバル化が進むと原材料も作られた製品もインターチェンジを経由して移動するだけになる。
目の前に経済的な流れがあることは分かるのだが、その流れには簡単に手を触れることができなくなる。
経済活動が『金は天下の回りもの』を実感できた頃には、景気の良し悪しは、程度の差はあれほぼすべての人が自分ごととして実感できていたはずだ。
そんな等しく景気を実感できていた最後が日本ではバブル景気の頃で、それ以降は現在に至るまで景気の良し悪しの実感の程度は格差が大きくなっている。
目の前の流れに簡単に手を触れることができなくなったことが格差と無関係ではないだろうと思えてくる。
冒頭で紹介した記事のように空港も流れを象徴する施設だが、新幹線や高速道路に比べると目には触れにくいかもしれない。
このように思いを巡らせると、もう一つ思うことが出てきた。
流れつながりで『川』の話。
都市を流れる川の多くがコンクリートで護岸されている。
目の前に川はあっても、川の水に触れて遊ぶということが昭和の頃に比べると極端に減っている。
これも、目の前に流れはあるのに触れられない、につながる。
護岸された川は安全だからと、すぐ近くまで住宅地が接近してるところが多いが、近年の集中豪雨は護岸を突破することが増えている、あるいは護岸の隙間や盲点が弱点になっているとも言える。
この川の氾濫と無関係ではないのが、やはり都市部の下水の処理能力で、これも流れが関係している。
流れの究極としては、地球規模での水の循環という壮大なテーマがある。
地球温暖化の恐ろしさは、気温の上昇よりも、それに伴う水の循環の変化。
雪や氷によって保たれていたエコシステムが壊れ、生態系に変化を及ぼすようになる。
流れてはいない雪や氷は見えるが、それが溶けて水になると、川と違って、その流れは見えなくなる。
現代人は、見えてるようで見えない流れに振り回されている。