違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

『働き方改革』というよりも『働かせ方改革」を強いるコロナウイルス!

『働く側』と『働かせる側』という分類が意味することは、権力を持っているか、それとも持っていないかとほぼ同じ。

 

注意しなければいけないのは、権力を持っていない人でも権利は持っているということ。

 

仕事に関しては権力を持っていないでも、趣味や遊びに関しては権力を行使できるし、一人でやってる時はより一層権力を実感できるはずだ。

 

一人で何かをする時、自分に指示を出すのは自分自身。

 

好きでやってることや、興味を持って自発的にやってることに関しては、指示は無限に続き、無尽蔵に感じられるほどだ。

 

しかし、他人に指示されてやることに対してはこうはならない。

 

指示されてる内容に前向きの興味や関心があったとしても、自発的にする場合とは大きな差が生まれる。

 

モチベーションの持続に関しても、結果を出すことへの執着も、大きな差が生まれる。

 

一方、指示する側の人の熱意は無限に無尽蔵であるかの如く感じられることもある。

 

この差はどこから生まれるのだろうか?

 

自分のために自発的に行動する場合、自分に指示を下すのは自分自身であり、そんな時の自分自身は自分に対しての権力者でもある。

 

指示を出すのが他人の場合、直接指示を下す人が持ってる権力は限定的で、その上にさらに指示を下す別の人がいるので、究極的に指示を下す最終権力者は民間だったら社長で、公的分野では政治家になるのだろう。

 

社長も創業社長と雇われ社長では、持ってる権力も権力の行使の仕方には大きく違いがあるだろう。

 

権力は、上を見ればキリがないので、見えてる人が頂点とは限らないかもしれない。

 

一人でやる場合も最終権力者も、権力を行使する実感が強いと、権力行使欲は無限でかつ無尽蔵になる。

 

 

最近、話題になることが多い働き方改革は、指示を出される側の立場と指示を出す側(=権力者)では全く違った受け取り方をしてるはず。

 

 

2月に入ってから急に脅威になり出したコロナウイルスは、働き方改革というよりも働かせ方改革を強いらせるようになっている。

 

目に見えないウイルスが脅威になると、有事となる。

 

有事に対しては、平時には正解とされた行動を指示することが、間違いになることがある。

 

日本のドメスティックな問題だと思っていたことは、今や国際問題として顕在化したようだ。

 

 

 

この南アフリカチームの来日拒否のニュースは、チームとしての統一の行動となったことで公表され報道されている。

 

統一の見解がまとまった時点で、南アフリカ協会の会長の弁として発表されてるが、その前段階で選手自身や選手の家族から『行きたくない』『行かせたくない』という声が上がっていたことは想像に難くない。

 

 

この一件が、他国のチームにどのように影響を与えるだろうか?

 

参加を予定していたどの国でも共通してる課題のはずだ。

 

 

 

予定や計画には突然の変更を余儀なくされることは珍しくない。

 

日本語では策を変更することを代替と呼ぶが、これでは変更を余儀なくされてから考え対応するというニュアンスが拭えない。

 

おそらく、最初に立てた計画や予定は変更すべきではないと考えているからだ。

 

それに対して、英語だと映画でお馴染みの『プランB』や『プランC』があり、『プランA』と同時に策定されてることが感じられる。

 

 

働き方改革という言い方をすると、自発的な対応に限定されてるようで、個人事業主やフリーランスには有効かもしれないが、組織やチームでの行動には不十分だと思える。

 

もし、権力者が有効に組織やチームを機能させたければ、常にプランBやプランCを立てておき、切り替えを発動するタイミングも事前に設定しておかなければ、代替策のように行き当たりばったりでは機能しないということが今回のコロナウイルスで思い知らされた気がする。

 

日本人は心配性だと言われる割には『プランB』や『プランC』を準備してないのは日本語でコミュニケーションを取ってるからかもしれない。

 

人間活動だけでなく自然災害やウイルスなどの脅威は国境を越えて侵入するので、考え方や発想にも壁を取り去る必要がある。

 

そうでないとこうなってしまう。