今日の早朝、ラジオで森永卓郎さんが言ってることが妙に頭に残っている。
特別なことを言ったわけではないが、今更ながらわたしの琴線に触れたのだ。
大雑把に言うと、配当の利回りが良い株を選ぶ人が多いが、そういう人たちに株を買ってもらうために、配当を高く設定せざるを得ない企業があるが、実際の業績が芳しくないのに高配当を出してる企業が保つわけない、だから株の暴落はありうる、というようなこと。
株の場合、株そのものの価格も変動するが、株が売れてる(=買われてる)限りは株価も上昇する。
単純に言うと、業績が悪かったとしても資金が回って配当が維持できれば株主が離れないことが期待できるのだ。
だから、業績が悪い時ほど無理をしてでも配当を出したいというマインドが生まれるのだ。
しかし、こんな状態が継続すればいつか弾けるし、予兆もないほど突然であれば投資家は株価の暴落に遭い、倒産でもすればゼロになるのだ。
株や投資の世界に限定すれば当たり前のことだが、このようなことは現在では至るところで起きているのだ。
話がそう繋がったので、森永卓郎さんのことばは琴線に触れたような気がする。
国家運営としての政治にも同じことが言えると気付くと、日本やアメリカで起きてることがなんとなく理解できる気がする。
政治の世界では、政権の中枢や与党にすり寄る企業や富裕層は政治的に優遇するが、そうでなければ冷遇する。
しかし、ひとたび配当に相当する優遇するための政策や国策がストップすると、すり寄っていた企業や富裕層は『聞いてないよ(怒)!』と反応するはず。
コロナが発生し、自粛や緊急事態宣言に伴う予想外の打撃を受け、オリンピックが延期になり中止の可能性すら秒読み段階と噂されるようになると、どのような本音が出てくるかは想像に難くない。
21世紀に入ると国も企業も富裕層(≒権力者)も社会の中枢に位置する者は、自分のことだけを考え、そのために周りの者を利用するようになっていたのだ。
以前は確実に存在した助け合いや協力と呼ばれることばは、今や騙しのキーワードですらあり、人の善意に突け込むことはボランティアと呼ばれるようになった。
今が時代の変わり目であることは多くの人が感じてるだろう、特にコロナは従来の価値観のベクトルを変える力を持っていることは間違いない。
県を跨いでの移動の自粛が解除され、報道で伝えられる映像では以前に戻ったと思わせるものも多いが、変化はゆっくりと確実に起きている。
ここまでの変化は、一過性のものなのか恒常的な変化なのか判断し辛いが、これから起きるであろう変化は、もう一過性のものではないはず。
時代の波に乗りたければ、変化に早く気付かなければいけないが、予想だけで行動するとバクチになる。