東京アラートが発動されたと報じられている。
東京アラートとは東京都防災ホームページによると、
〜〜以下引用〜〜
東京アラートを発動中です。
- 「東京アラート」は、都内の感染状況を都民の皆様に的確にお知らせし、警戒を呼び掛けるものです。
- 都民の皆様は、不要不急の外出を控えるとともに、3密のリスクが高い場所には十分ご注意ください。
- 手洗いの徹底とマスクの着用、ソーシャルディスタンスの確保、「3つの密」を避けた行動など、「新しい日常」を徹底して実践してください。
- 事業者の皆さまには、都や各業界団体が策定するガイドライン等を踏まえて、適切な感染拡大防止対策の更なる徹底をお願いいたします。また、出勤に当たっては、テレワークや時差通勤の活用をお願いいたします。
〜〜引用ここまで〜〜
と、なってるが都民やニュースで見てる人々にとっては視覚情報として入力する。
思ってた以上に禍々しいイメージで伝わるものがあることに気付く。
レインボーブリッジで死闘を繰り広げて、なんとか辿り着いた都庁のてっぺんにラスボスがいそう#東京アラート pic.twitter.com/1pccO6eEM3
— たかし (@takashi_silvia) 2020年6月2日
東京アラートとは東京都防災ホームページに書いてあるように注意喚起なのだが、解釈には幅が生じそうだ。
東京アラートって何?「危ねえって言ったよね。言ったから。あとは自己責任でよろしく。あ、レインボーブリッジ、ライティング変えたから見てね!」としか聞こえないのは、きっとアタシがひねくれているからなんだろう。んで?東京アラートでステップなんとかはどうする?
— 麻木久仁子 (@kunikoasagi) 2020年6月2日
今や何でもかんでも自己責任が要求されるようになってるが、同調圧力に従い忖度を受け容れる日本人は“お上”に寄りかかることが好きな、自己責任とかけ離れた価値観も強く持ち合わせているはずなのだがとも思う。
だから自己責任と言いつつ、本当に困った時にはお上にすがろうとする。
いつ頃から自己責任ということばは浸透したのだろうかと思いGoogleTrendsで見てみると、検索可能な2004年1月1日以降でギリギリ反応があった。
2004年4月に起きていたのがイラク日本人人質事件。
紛争地へ取材で入ったジャーナリストや危険地帯であることを承知の上で入ったバックパッカーが拉致され人質になり、その身柄解放に身代金が国に要求された、そのような報道が連日続く中で巻き起こったのが自己責任論だった。
今にして思うと、この当時の自己責任論には『お上の行ったら危ないと言う助言に逆らったからだ』という自業自得から生まれたであろうという見方や、『お前だけが税金で助けてもらいやがって』という妬みや僻みの裏返しも混じっていたような気もする。
この時期を境目に、リスクを取ることを自己責任と呼ぶことが一気に浸透したような気がする。
当初は、リスクは生命の危険を意味していたが、やがて投資や金儲けにも拡大し、今ではチャレンジすること全般に当てはまるようになっている。
自己責任には、失敗して文句や不満を言うならチャレンジするな、という思いが込められてる。
説得できない相手に対して捨てゼリフ的に使われることも増えたような気がする。
日本における“自己責任”の使われ方は忖度から派生したように見えてくる。
今の日本には、コロナのせいでと思いながらも心のどこかで自己責任だったのではとも感じてる人が大勢いるはずだ。
中途半端に忖度してお茶を濁そうと思う気持ちと、どうせ自己責任なんだから思った通りにやりたいという気持ちの狭間で悶々とする気持ちの人も大勢いるはずだ。
自己責任で悩むということは、忖度や空気を読むことに疲れているということでもありそうだ。