なんでも話せる相手って、いそうでいないもの。
なんでも話せると思っていても、相手が苦手だったり嫌いな分野の話題に触れると会話は弾まなくなるものなので、テーマによっては自然に話す相手を変えるようになるかもしれない。
話や会話が成立するのは、お互いが相手を許容し合ってるか、あるいは一方がガマンしたり諦めたりしてるからかもしれない。
このようなことが起きるのは、会話は基本タダだから。
これが相手が話を聞くことが仕事だったら少し事情が違ってくる。
心を込めて話を聞く仕事には、取材やインタビューもあれば相談やカウンセリングもある、場合によっては商談でもだ。
話を聞く仕事にとっては、相手が話してくれなければなにも始まらないことが多いので、話をする気になれるような信頼関係や雰囲気づくりが大切になる。
時には、どうでも良い相手と思われることによって本音を引き出すということもあるだろう。
以前は、悩みや心配事や不満や不安は身近な誰かに聞いてもらうことが多かったし、聞いてもらうだけで答えが見つかるわけではないのに解決するようなものが世間の悩みには多かったような気がする。
しかし、現代の悩みや心配事や不満や不安は聞いてもらうだけでは解決できないものが増えたように感じられる。
そうなると、話し相手は身近な誰かでは不十分になる。
話す相手は、その道のプロだったりエキスパートだったりが相応しい存在にならざるを得なくなり、そういう立場がたまたま身近にいたとすればすごくラッキーではある。
いずれにしても一度その手の話を交わしてしまったら、もう無邪気な関係ではなくなるだろう。
友だちはいるが親友はいないと答える人が増えている。
自分は友だちだと思ってる相手が、自分のことを友だちだとは思っていない、このような関係が増えている。
親友という存在が果たしてくれていた役割は、現代では身近な誰かではなくなりつつある。
『どうして相談してくれなかったんだ』『そんなに悩んでいたなんて』と、周りにいる友だちだと思われていた人々は口にするが、多分その人たちは相談相手にはなり得なかったのだろうなと思えてくる。
周りに相談相手がいないと思ってた方が自死を選ぶ時、遺書にはなにを書くのだろうか、誰に向けて書くのだろうか?
と、思ってしまう。