改革と銘打った話を最近目や耳にすることが多い。
それらは〇〇改革とキャッチフレーズが付く(付けられる)。
行政改革、構造改革、規制改革、働き方改革などなど。
しかし、改革が成功したという話をわたしはほとんど知らない。
というよりも、学生時代歴史が好きではなかったわたしにとって頻繁に出てくる〇〇改革を年号も含めて内容を覚えるという作業はとても苦痛だった。
その思いがあるからだろうが、〇〇改革と聞くたびに『一回で済ませろよ』とウンザリするようになってしまった。
改革と呼ぶからには、何か過去からの流れを断ち切ろうとするする意思が働いていることは感じられる。
最近だとその動機の多くは生産性や効率性に基づくようだが、もっと端的にいうと従来のやり方に不満があるということだ。
つまり、改革とは不満に対する反動なのだが、当然の如く改革に対する不満だってあるのだ。
そういう思いを踏まえて、不満を感じるということについて考えていると、たまたま二つの記事が目に付いた。
別々の記事なのに、同じことを言ってるのかなと感じられる二つの記事だった。。
林修が共感!杉下右京の“頭のよさ”を感じたセリフ「私と似たような頭の使い方をするなと」
林「杉下右京は、まず相手の言うことをよく聞いているし、よくものごとを観察しています。
『コミュニケーションは口ではなく、まず目と耳で行うんだ』と教えてくれる。
他の人が見逃していることを右京さんは見ている。それが結果的に口(言葉)に繋がっていると思います」
さすがは林先生、上手いまとめ方をするなと感じられた。
私たちが日常見聞きする不満は、見聞きと言ってるにも関わらず目や耳で感じた不満ではなく、口にされた不満がほとんどだと気付く。
口にされる不満の多くは口調が強い場合には利害意識には影響を及ぼすかもしれないが、利害を除いたら共感意識は乏しいのかもしれない。
そう思ったら次の記事が目に付いた。
角田光代さんに聞く!50歳からの友だち付き合い【いる友だち、いらない友だち】
「話をしていて楽しいのは、自分の考えがあってそれをハッキリいえる人。できれば避けたいのが自分の意見がなくて、『どう思う?』と他人の意見ばかり聞きたがる人です。
明確な考えや意思に基づく意見の先に改革が見える場合と、『どう思う?』の多数決的な改革ではまるで意味が違うのは当然だ。
『どう思う?』という日常に溢れてる問いかけに毒されているのかもしれない、そんなことを教えてくれるツイートがあった。
RT よくわかる。大学非常勤していた時、○○についてどう思うか?と問うと「人それぞれなので好きにすればいい。ただ押し付けは良くない」など思考の跡のない回答が急に増えてきたのが2010年代だった。自分の意見を言うのを避ける傾向。「どう思うか?」ではダメなので「なぜだと思うか?」にしたが。
— 大野左紀子 (@anatatachi_ohno) 2020年10月18日
そう言えばと思い出すのが、いつの頃からかはっきりと自分の考えを主張することに対して『決めつけるのはやめて』というリアクションが増えて定着したように感じられる。
おそらく、『決めつけるのはやめて』と言う人は『どう思う?』という口癖が似合いそうな気がしてくる。
『どう思う』でTwitterを検索してるとおもしろいものがあった。
河野太郎が辛坊治郎の番組で、縦割りをなくすとか、無駄をなくすとか、やってたけど、学術会議のことも例外なく見直すとか言ってたが、大臣個人として、学術会議についてどう思うか?と二度ほど聞かれても、それは井上大臣の管轄なのでと答えを濁した。
— Hiromi1961 (@Hiromi19611) 2020年10月17日
それを縦割りって言うんじゃないの?
『どう思う』を繰り返すばかりも問題ありそうだが、『どう思う』と聞かれてそれにきちんとリアクションできないことも人間性の深い部分を示していることが分かる。
林先生の『コミュニケーションは口ではなく、まず目と耳で行うんだ』が深いなと改めて実感できる。