世の中にはさまざまな悩みが存在する。
こんなことで悩んでいるのは世界に自分ひとりだけだろうなと思うような悩みから、誰もが悩むであろう悩みまで。
本当に体調が悪くなったり急なケガをすれば迷うことなく病院に行くだろうが、時間的に余裕があり、どうせ医者に見てもらうなら優秀な医者が良いし、ヤブ医者だけは勘弁してほしいと思うだろう。
そんな場合、すでにかかりつけの病院を持っていて、その病院に対して信頼を持ってるごく一部の人を除くと、どのように病院や医者を選ぶだろうか?
検索で良い評判を探ることは可能かもしれないが、通いやすい場所でという条件がつくと選択肢は限りなくゼロに近づくかもしれない。
昨今のように発信の仕方によってはプライバシーの問題や寄せられるクソリプを嫌がり、本当はみんなに教えたい良い情報にも関わらず発信されないものも多いだろう。
良い情報へのアプローチは、意外とハードルが高いのだ。
そんな時は、家族や友人などから情報を得ようとするだろうが、その相談相手が本当は良い情報を持っていたとしても、聞き方や問い方が下手だと、あるいは相談された相手が自分の情報に自信を持っていないとすれば引き出せないかもしれないし、人間関係そのものが良好でなければワザと良い情報を教えないということも少なくないだろう。
道具やグッズの使い勝手に関する情報は、一定水準を満たせば高い再現性が得られるのに対し、欲や得が絡む現代の情報は再現性の低さが最大の特徴。
知らなかったことを知るための情報収集と、見返りの再現性を求めての情報収集は、全く種類が違うのになぜか同一視されがち。
最もお宝の情報は、情報を持ってる人ですらその価値に気付いてないようなものに気付くことで、つまり情報そのものよりも目利き力の方が重要になるし、それを引き出すためにはコミュニケーション力も求められる。
つまり、情報を求めていても、最も重要なのは情報ではないのだ。
そのことに気付かないとダイエーのようになるかもしれない。
21世紀を目前にする頃日本最大の小売企業だったダイエーを、今となっては知らない人も多いはず。
ダイエーの業績悪化が続いた頃、囁かれたのは「ダイエーには何でもある。けれどほしいものは何もない」という陰口だった。安いものを大量に消費するという時代はとっくに終わっていた。そのことに中内は気づいていなかったのか。いや気づいていてももう手の施しようがなかったのか。言うなれば飢餓感がダイエーを巨大化させ、そしていつまでも癒えない飢餓感が宿痾となってダイエーを消滅させた。
『何でもあるけど欲しいものだけがない』というのは今や情報を求めて日夜奮闘してる人の合言葉だ。
情報自体が、ダイエー化してるように感じられる。