言いたいことや伝えたいことがあるなら大きな声で言う方が良い、小さな声だと届かないし聞こえないから、とよく言われていたが今年はコロナのせいで大きな声を上げると非難の目で見られるようになった。
マスクをして大きな声を出さないようにすると当然のように聞いてると聞きづらくなる。
最近一際聞きづらくなったなと思っていたらセミが一斉に鳴き始めていたことに気付いた。
声が聞きやすく伝わりやすいためには、声を大きくすることも大切だろうが、それ以上に周りが静かであることや聞きやすい環境が整っていることが大事だと改めて気付かされる。
何かに反対するために大人数でデモを行っている姿を間近で見ると気付くことが、統一されて発されてる大きな声のように感じられる声の正体は、バラバラに発されていて一つにまとまることはなく互いに干渉し合い何を言ってるか分からないただの大きなノイズにしかなっていないということだ。
デモ参加者の顔ぶれを見ても真剣な顔をしてる者もいればヘラヘラ笑ってる者や、中には参加してるのが恥ずかしいのか俯いている者もいるのだ。
同様の姿は、大規模な被害者弁護団が結成されてる注目の裁判が行われる場合の、関係者が傍聴のために入廷する直前の様子にも感じたことがある。
たまたまそんな場に出くわしたのだが。
関係者が裁判所の敷地内でにこやかに談笑してると、裁判所の職員が出てきて周囲にいたテレビのスタッフが「これから撮影します」と声をかけると、ハチマキを締め直して険しい顔になり声を上げ始めたのを見たことがある、1回だけだが。
「お芝居かよ」と思ったことを覚えている。
こういうシーンはテレビで流れることはない。
大きな声だったはずなのに、いつの間にか雲散霧消するように感じられることの多くは、そもそも大きな声ではないのかもしれない。
世間の大きな声としてテレビや新聞が伝えることの多くが、後にして実は世間のノイズに過ぎなかったということは、日本のガラパゴスなのかもしれない。
世間の大きな声とは多くの場合、実は草の根活動で上がる声。
一方で、本当に大きな声は日本ではコンテンツ単独では機能せず、広告宣伝とセットで機能してるのだろうと想像できる。
最近の日本では、国や大企業でテレワークや在宅ワークが過剰にもてはやされてるが、ITを駆使してのテレワークや在宅ワークの効果は数年前からアメリカではNOが突きつけられている。
テレワークや在宅ワークは、この程度はできるなという趣味的な取り組み以上には入り込まない方が良いのかもしれない。
本気でテレワークや在宅ワークに舵を切って、そのせいで事業破綻する会社が出てきても不思議はない気がする。