違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

感情論としての詐欺

中学生男女が美人局を行い、逃走した被害男性が不幸な死を遂げた事件のことからふと思った。

 

美人局とは売春詐欺だなと。

 

売春の歴史は人類の歴史と同じくらい長いと聞いたことがある。

 

もしかしたら詐欺の歴史も同じくらい長いかも。

 

以下は法律論でも犯罪論でもない感情論としての詐欺。

 

 

ビジネス上の取り引きで、継続的な取り引きが始まった後で担当者が代わるということはよくある。

 

しかし、取り引き開始に当たって『その担当者だから取り引きを決めた』というケースは少なくないだろう。

 

そういう当事者にとっては取り引き開始後に担当者が代わることを詐欺だと感じる人がいても不思議はないだろう。

 

もちろんこのようなケースでは被害と言えるものは感情以外には発生していない。

 

それでもその害された感情に対しては共感は少なくないような気がする。

 

人を裏切ったことなど一切無いと言い切る自信がある人でも、この手の裏切りをしたことは一度や二度はあるはずだ。

 

 

そう思うと、詐欺の歴史とは人類誕生の頃からあっただろうなと思えてくる。

 

ついでに言うと、詐欺は騙す側が騙すことで発生するのではなく、騙された側が騙されたと思うことで発生する。

 

繰り返すが、これは犯罪論や法律論ではなく感情論。

 

この感情は厄介なことにかなりの揺れ幅があるので、同じ人であってもその時の自分を取り巻く環境や事情によって許容範囲が大きく違ってくる。

 

許容範囲が変化すると、起きた出来事に対する解釈が変化するというのがポイントになる。

 

 

あるタイミングだったらなんとも思わないことが、別のタイミングだとどうしても許せないことに思えたりする。

 

同じ人であってもそうなのだから、年齢も違えば育った環境や今生きてる環境が違えばさまざまな許容範囲の不一致が交錯する。

 

『なぜあんな人が支持されるのか?』、そんな思いが世間に、いや世界中に溢れる理由だろう。

 

万人が良いというものが無いように、万人が悪いというものも無い。

 

良い悪いと書いた部分を好き嫌いと置き換えても同じ。

 

つまり、いつでもどこでも詐欺は起きているのだ、そしてわたしもあなたも騙し騙されてるのだ。

 

 

日常会話で軽い気持ちで使われてる『やられたよ』や『騙されたよ』を分析すると思わぬ発見が得られるかもしれない。