違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

人生に張られた伏線!

わたしがおもしろいと感じたドラマに共通していたのが、脚本家が古沢良太さんだったと後から気付いたことがある。

 

その頃の気持ちがふと思い出された。

 

結果的に見ておもしろいドラマというのは、わたしの場合は巧みに張られた伏線の妙が感じられるドラマ。

 

わたしにとっては、というか辞書的には、伏線は張るものであり、敷くものなのだが、最近ではこれに加えて回収するものでもあるようだ。

 

言い回しとして知ってはいても、伏線の場合の張ると敷くの違いは知らなかった。

 

調べた結果、ざっと違いを記すと、共通項としては伏線は、後の展開が上手くいくように予め準備しておく設定。

 

張る、と使われる場合は、現実の出来事のように伏線を準備してるからといって必ずしも上手くいくとは限らない。

 

敷く、と使われる場合は、ドラマの脚本のように脚本家の意思でどうにでもなるもの。

 

回収、と使われる場合は、ドラマや映画で敷かれた伏線がきちんと成立すること。

 

脚本として敷かれた伏線は、視聴者や評論家目線では回収されるとは限らないのだ。

 

伏線が回収された時には視聴者は快感を感じるはずで、その快感は伏線は敷かれていたというよりも張られていたものだと感じるからこその快感だ。

 

それに対して伏線が回収されない時には安っぽい展開にガッカリしてるはずで、その時に視聴者が感じるのはただの予定調和のはず。

 

一方、現実社会では張られた伏線は上手くいかないことの方が多いかもしれないし、そのような場合には伏線以前に単なる準備不足で片付けられる出来事が多いはず。

 

しかし、現実社会では時として伏線を張ってるわけでもなく、準備してるわけでもないのに、結果的にはまるで伏線が敷かれていたかのような出来事が起こることがある。

 

 

これこそが、スティーブ・ジョブズが言った『点と点は後からつながる、点と点をつなげようとしても上手くいかない』だと感じられる。

 

つまり。ジョブズ流に解釈すると、人生には伏線は通用しないということになる。

 

 

計画的に予定通りに人生が進行してると感じてる人の場合であっても、実際にはものすごい偶然やたまたまの結果なのだ。

 

逆にいうと、全然上手くいかない人生であっても、それも偶然やたまたまの結果なのだ。

 

こういう現実は、だから人生はおもしろいとも言えるし、反対に残酷だとも言える。

 

 

今現在の自分があるのはどこかに張られていた伏線のせいかもしれないが、これからの自分はどこに張られているのかわからない伏線のせいでおそらく変化していくのだ。

 

自分の人生の伏線はどこで回収されるのだろうかとワクワクできれば、それだけでも楽しい人生になりそうな気がする。