目と眼の違いがふと気になった。
調べてみると、眼が眼球を意味し、目は眼球だけでなくその周囲の瞼や目頭や目尻などを含めた広い範囲を意味するらしい。
わたしが期待していたのは、見え方や捉え方の違いを意味するニュアンスがあるのではないかと言うことだったが、そう言う意味合いはなさそうだ。
事実だけを伝えることを目的とした写真ですら、事実以上のことを伝える場合もあれば、事実すら伝わらないものもある。
ドラマのように脚本に基づく動画であっても、同じ脚本でも演じる人の違いや演出の違いで伝わる内容やニュアンスはまるで違ったものになる。
写真や動画を見る場合(実際の日常生活でも)、情報の80%〜90%は眼から入ると言われている。
残りの10%〜20%が音で、実生活の場ではこれに匂いなども加わると言われる。
このパーセンテージに意味があるとは思わないが、写真や動画を通じて眼から入る情報は、カメラやレンズを介しての情報になる。
撮る意識で見ないと気づかないが、映像として撮られた現場で肉眼で見てるのと、撮られた映像は同じにはならない。
直接眼で見るのとは違う映像だからこその感動や幻滅があるはずなのだ。
動画は高速連続写真と言う意味では写真の一部になる。
眼にはこうは見えてないという映像がカメラを介すると見せることができるし見ることができる、そのことが新しい気付きや感動を与えてるとすれば、映像の世界はどんどん眼から離れていくのかもしれない。
しかし、離れ過ぎてしまうとただの野暮で興醒めのゲテモノになる。
映えと言うことが一種の流行だが、GoogleTrendsで見るとピークは過ぎたように感じられる。
2017年になってから急に盛り上がったのが映えだが、そのキッカケははインスタグラムだったような気がする、映えとともにGoogleTrendsで比較すると、
インスタグラムの流行から少し遅れて映えが流行ったことが分かるとともに、インスタグラムもピークを過ぎた様子が伝わる。
つまり、映像の世界は転換点にあるのかもしれない。
これにYouTubeを加えて比較すると、
YouTubeのピークは10年前だったことが分かるとともに、ピークを打って一旦下がった後は大きく崩れることがない動画需要が感じられる。
これだけを見ると、写真から動画へのシフトも感じられるが、これに最近オワコンと言われるブログを加えて比較すると、
この動きだけを見ると、ブログはオワコンじゃなさそうだと思える。
さらに、あまりにもオーソドックスだがブログと写真は相性が良いはずなので、写真の披露の場としてブログは再認識されてるのかもなどと思ったりもする。
そういえば最近の俳句の流行も『写真を見て一句』だなと気づく。
俳句の世界におけるお題としての写真は、その映像にこだわる必要はない、いかにその写真から発想を飛ばすかと言うことが求められる。(と、プレバトで夏井先生は言っていたような)
これまでとは違う形で写真にスポットが当たっているのかもしれない。