ブラック労働ですら新局面を迎えているのではと思える記事があった。
連日20時間勤務で退職者急増…「このままでは崩壊する」元官僚が明かす“ブラック霞が関”の実態 『ブラック霞が関』千正康裕氏インタビュー
世間で言うところのブラック労働の多くは、労働の質や労働量や労働時間に対して賃金や報酬や待遇や世間体のバランスが取れてないことが大きな問題だったような気がする。
それに心や体が蝕まれる要素が加わることで決定的に嫌われるようになったように感じる。
勝手に想像する官僚が強いられるブラック労働にはあまり悲壮感は感じられなかったのは、額面上の給料は世間一般のトップクラスには劣るとしても、世間に対する体裁の良さや将来の心配の少なさがトレードオフとなってたからのような気がする。
またドラマや小説のせいかもしれないが、官僚の長時間労働を助長する要素として、家庭が居心地悪く職場の方が気楽だという先入観も持ちやすい。
しかし、それはやはり偏見で官僚ですらブラック労働にうんざりするような現代的な変化が現在進行形なのだ。
詳しくは記事本文を読んで欲しいが私なりに印象に残った部分を抜き出すと、
いまは官僚の家庭も共働きがほとんどなので、男性職員も家庭での責任があります。小さい子供がいるのに徹夜で働いて朝に帰る、みたいな生活をしていると、相手にワンオペを強いることになるわけですよ。で、フラフラになって家に帰ると夫婦で喧嘩になる。そうすると、もう何のために働いているんだろう……と。
共働き&子育てという問題は核家族であることと密接に絡んでいるのはいうまでもないが、昭和の頃にあった『亭主(=父さん)元気で留守が良い』という価値観は遠くに行ったように感じられる。
つまり、亭主や父さんは留守が良いとは言えない家庭内の役割が明確に増えているのだ。
僕が入った頃は、上に行けば行くほど暇だったんですよ。管理職はみんな本とか読んでいるし、局長みたいな個室にいる偉い人たちは、テレビで国会中継を見ている。そんな感じだから、若い人も上の人に相談がしやすかったんです。
でも今は、上から下までみんな余裕がなくてあたふたしているから、「こんな忙しい人の手を止めていいのか」と思ってしまいます。仕事上の最低限の話はできても、「ちょっとこういうことで悩んでいるんです」とか、「この政策についてどう思いますか」とか、そういう会話は全然できなくなっている。若い人にとっては、困っても相談できる人がいない状態で、辛いという声もよく聞きます。
これも興味深い気付きを与えてくれる表現で、官僚の世界に限らず、現代人が『忙しい、忙しい』と呪文のように言うのは『俺に(わたしに)話しかけるなよ』、『余計な仕事増やすなよ』という伏線なのかもしれないと思える。
現代人は本当に忙しい人も多いが、実は暇な人も多い。
暇な人の多くは、結果を求められているという意味では、やるべきことは山ほどあるが、何をやったら結果が出るのかと悶々と悩むだけの人が多い、つまり暇だけど悩んでいるので心は忙しいのだ。
官僚が疲弊する最大の要素が国会にあり、国会議員と官僚の関係を元請けに対する下請けと表現している。
『官僚が国を動かしてる』という昔はあったはずの自負は今はかなり薄くなってるようだ。
下請けの立場が弱くなるということは、現場が疎かになるということを意味する。
元請けの立場が強くなると、管理や締め付けが厳しくなる。
結果的に回るはずのものが回らなくなる。
楽観的にブラックを取り巻く状況を捉えたときに、動いていた振り子が一方の端まで振り切れつつあるのが今で、一旦止まった後に逆向きに振れ始めるようなものだとするならば、自然と世の中は正常化に向かい始めるはずだが、このような見方は楽観的過ぎるのだろうか?