ものを買う時には誰だって最初は新品を買おうと考えるはずだ。
特に食べ物のように消費期限が一般的に短いとされるようなものに関しては。
しかし、腐ったりしないし消費期限は自分の気持ち次第だと思えるものであれば、必ずしも新品でなくても良い。
新車に対する中古車なんていうのが代表格だろう。
あるいは新書に対する古書(いわゆる古本)。
最近では、家具や家電がそういう対象として定着している。
一部の界隈では、古いことに新しいこと以上の価値がつくこともあるが、そのような場合の多くはデザインが関係している。
デザインというのは、それが新品として世に出た時の世相や流行が反映されているもので、真似をするだけならば簡単なはずだが、真似をしても醸し出す雰囲気は同じにはなりにくい。
デザインだけで選べる場合にはなんの問題もない。
しかし、デザイン以外にもその時代に応じたニーズや機能が求められると、腐らないものにも賞味期限が生じることになる。
このようなことは実は人間にも当てはまるのが現代だ。
新卒に対する転職や中途採用だったり、正社員に対する派遣だったりだ。
好景気の時代には転職や派遣という選択は賢明なステップアップだと考えられていたが、今振り返ると日本では短い一時期の話だったようにも思える。
日本以外でも先進国では少子化が問題になってる国は多いが、そんな国々では社会保障を維持するために子供が生まれることを望む一方で、現実社会では人を必要としない社会の仕組みが拡大しつつある。
つまり、新しく生まれる命と既に生まれてる命の間に、寿命とは異なる消費期限や賞味期限の無限のグラデーションが存在するようになっているのだ。
デスクワークのホワイトカラーは実際の年齢が若いにもかかわらず賞味期限が切れてると判断されることが多いのに対し、肉体労働や体を駆使する仕事は賞味期限を越えても消費期限が設定されずにいる。
菅総理大臣を見ていても感じられる。
官房長官時代の切れ味を期待していた人は、完膚なきまでに裏切られている。
官房長官時代の降りかかる火の粉を上手にあしらっているように見えた姿は、先頭に立って燃え盛る炎を前にしたらまるで通用しないことが明らかになったこととよく似てる。
火事の現場でこれまでは消防車の側で指示するだけだった人が、現場の炎に突っ込もうとしたけど何もできないし、そもそも度胸もないことが明らかになったようなものだ。
このような人間がおそらく非常に増えている。
リスクに対して、あしらったり、評論はできるが、実際のリスクマネージメントは全くできない人が非常に増えている(はず)。
ビジネスの現場では、消費者というのは『お客様は神様です』などと言われながらも最下層に位置させることでビジネス論は組み立てられてきたが、腐らない商品ですら消費期限や賞味期限を持つようになると、今後のビジネス論はお客を最上位に位置付けないと成り立たなくなるだろう。
ものや人間にある賞味期限や消費期限が少し前に比べて極端に変化し始めている現代では、価値観が180度変わってしまうことは珍しくないはず。