違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

喪失感を紛らわせてくれるのは些細な喜び

一斉休校が実施されたのが2020年3月2日(月曜)から、ちょうど1年前だった。

 

思えば、この時からコロナはすべての日本人に何らかの影響を及ぼし始めていたのだ。

 

その影響をひとことで表現すると失うということで、何を失ったかは人それぞれだろうが、失った人が感じるのが喪失感だ。

 

何に喪失感を感じるかは人それぞれだが、感じてる喪失感が同じ種類であったり似ていても、喪失感を実感するまでの時間差も違えばその質も違っているし、人によっては喪失は複合的だったりもするだろう。

 

代表的な喪失は、

 

  • 金銭
  • 健康
  • 人間関係
  • 機会

 

 

持っていることにあまりありがたみを感じていなかったものほど、失った時の喪失感は大きくなる。

 

個人的な印象としては、昭和平成令和と時代が移り変わるたびに世の中から機会が減っていったような気がしている。

 

もっと言うと、機会すら売り買いなどの金銭的な領域に属するものにシフトしていたように感じる。

 

昔は機会は自分で作るものであり、人間関係から生まれるものだったような気がするが、いつのまにか変化していたとすれば、それも喪失体験に含めても良いような気がしてくる。

 

喪失感には、不思議なことに実際には何も失っていないのに感じるものもある。

 

正確には、失ったものは錯覚のようなものだったとしても感じるのだ。

 

パーティーや祭りやイベント参加などで気持ちが大きく盛り上がった翌日になぜか感じる気持ちも喪失感に似ている。

 

 

理系だったらこんな時には作用反作用の法則を思い浮かべるかもしれない。

 

喪失感ゆえに気付いてないが、反作用として得てるものが、きっとあるはずだと。

 

 

一斉休校から1年経過し一斉休校とは何だったのかを総括する記事を見かけるが、その中に、学校が担っていた役割が家庭に押し付けられたというものがあった。

 

そうだとすると、子を持つ親にとっては自分が感じてる喪失感の他にさらなる負担感を背負いこんだことになる。

 

 

コロナ前に喪失感を感じた場合の立ち直りは、コロナで奪われたものに頼ることが多かった。

 

従来と同じように対処しようとしてもそれがままならないのだ。

 

 

人が頑張るのは自分のためのはずだが、その基準は他人からの評価だったりすることが多い。

 

つまり、他人の目を意識しながら目標や目的を立てているのだ、無意識のうちに。

 

いつまでも喪失感が拭えない場合の原因に、他人の目を意識しすぎて自分自身に目を向けなさすぎになっている、ということが関係してるかもしれない。

 

そういう時に意識すると良いのは、他人に言ったら笑われるかもしれないくらい些細な自分だけの楽しみや喜びを持つことだ。

 

そういうものが一つあるだけで他人の目という呪縛から逃れられるだろう。