視覚から得られる情報に関して歴史を振り返ると古い順番に、
- 直接目で見た情報
- 絵で書かれた情報
- 少ない文字数で書かれた情報
- 書物など多数の文字で表現された情報
- 上記に加えて写真が登場
- さらに動画が登場
基本は、現在でも文字や絵や写真や動画を使うことで情報を視覚で意識することが多い。
純粋に視覚だけでなく動画の場合だとサウンドや音声も重要な要素を占めるし、実際の食事をイメージすればそれらに加えて匂いなども重要な情報になるが、全部ひっくるめて視覚と一体化してイメージが出来上がるように感じる。
これらの変遷は、その時代のテクノロジーが生み出してきたが、歴史上は圧倒的にアナログ技術の期間が長かったし、アナログ技術の多くは手先の器用さに依存していた。
一般大衆レベルでデジタルが生活に定着したのは21世紀に入ってからだからわずか20年に過ぎない。
視覚情報を得るための媒体がデバイスと呼ばれるようになったのもこの20年の話で、それ以前は新聞雑誌などの紙媒体やテレビやラジオだった。
テレビやラジオもアナログからデジタルへと変化したはずだが、現在のテレビは明らかにアナログなメディアというイメージを払拭できずにいる、おもしろいのは一部でラジオの復権が見られることだが、これはアナログの魅力の再認識だ。
テレビのせいかもしれないが、情報は画面を通して得るものになっていった。
画面は、情報を得るだけでなく操作するための盤面としての役割も与えられるようになりディスプレイに昇格していった。
全く別の存在だったテレビとパソコンだったが、パソコンがテレビを脅かしたほどには、テレビはパソコン側に影響を及ぼさなかった。
一時は存在感を失ったテレビだったが、画面サイズの大型化で辛うじて生き延びたように感じる。
テレビが存在感を維持できているのは画面サイズの大きさに依存してるとしか思えないという意味では、家電メーカーが大型テレビを生産してくれてるおかげでテレビ局は生き延びられていると言っても良いような気がする。
権利関係に頑なだったテレビ業界がアプリで番組を見れるようにしたことは、ジリ貧を防ぐためと、画面サイズの優位を再認識したからかもしれないが、鑑賞するためだったら優位かもしれないが、情報の取得としてであればどちらでも構わないので優位ではなくなる。
画面サイズとは別に、やり取りされる情報の総量に注目すると、テレビはカバーする守備範囲が狭いことと深掘りの度合いが浅いので、興味を満たすために積極的に見るものというよりは、バックグラウンドでとりあえず点けておくものになっている。
こんなことをダラダラ書いているのは、次にデジタルデバイスを買う時はどんなものを選べば良いだろうかと考えていたからだ。
新しいiPad Proは大幅にスペックアップしたが価格も上がりmac bookの方が安く感じるくらいだ。
普通に比較検討する場合は、スペック以外には自分が使うアプリなどの使い勝手などを対象にするが、それ以外の基準点として何があるだろうかと考えたからだ。
ディスプレイを主人公にしてデバイスを見ていくと、少なくともテクノロジー的には直接操作できる方が優位であることは間違いないと思える。
悩ましいのは、その優位を決定づけるだけのアプリ等がないことで、そのような場合には必ずクリエイター向けという表現が付いて回るが果たしてそうだろうか?
ディスプレイという観点では、次世代はARやVRとも言われてるが、むしろそちらの方がピンと来ない。
まだ早過ぎると感じられるのは、わたしがついて行けないからだ。
日進月歩と言われるテクノロジーの世界だが、進んでいく方向だけ見ていたら気付かないが、通り過ぎた後には少し前のテクノロジーの屍が横たわっているのだ。
最近の新卒の大学生がPCを使えないと嘆く声はよく聞こえるが、そういう人は、会社のIT環境がそもそも時代にそぐわないものだとは理解しないでスルーする。
積み重ねた人生が長ければ長いほど、旧い時代遅れで武装してるものだ。
個人の場合だと積み重ねた人生となるだろうが、国や社会だと旧い時代遅れとは築いたインフラや社会システムだったりする。
必要なのは補修や改修なのか、それとも全部やり直しなのか。
個人であっても、社会システムであっても、長生きすると何かと不都合は多くなるのだ。
そんな時に、目先の利便性や合理性を基準にして対処すると、別の不都合がどんどん大きくなる。
選択に迷った場合は、面倒くさそうな方を選ぶくらいが丁度良いのかもしれない。