違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

水平思考で格差や偏差値について考えると

イノベーションはありがたがられるが、そのイノベーションが普及してコモディティになると途端にバカにされる傾向がある。

 

バカにされるというと誤解を招くかもしれない。

 

普及したということは良い意味で受け入れられた結果なので高く評価されて良いはずなのに、普及してメジャーな存在になると希少価値はないと判断されるようになっている気がする。

 

 

ビジネスの成功とはメジャーの座を手に入れることのはずだから、普及させた功績は大きい。

 

しかし、一旦普及の動きが見られるようになると、一斉に真似やパクリが増えるようになる。

 

これがコモディティ化だと捉えられる。

 

だからこそ『最初』が過度に評価される。

 

ビジネスの世界では『最初』の企業が独占する傾向が強いからだ。

 

 

このようなことを世間の動きに感じるたびに思い出す話がある。

 

 

養老孟司先生が偏差値について語っていた話で、以下のようなものだが、出典は覚えてないし、私の脳内の記憶であって本当はそんなこと言ってなかったかもしれないというあやふやさはある。

 

 

〜〜記憶している養老先生の話〜〜

 

世間では高偏差値がありがたがられるが、それは間違っている。

 

わたしは東大の医学部に入って以後東大で教鞭を取って長年過ごしてきて、高偏差値の人間を嫌というほど見てきた。

 

もしわたしが、辛うじてまともな人間でいられたとしたら、それは解剖医として死体とばかり向き合ってきたからだ。

 

偏差値に関していうと、高偏差値も低偏差値もやがては中央値(偏差値50)に吸収されていく。

 

これって、自然淘汰の理屈と全く同じなんですよ。

 

つまり、高偏差値人間は淘汰される側の人間なんですよ。

 

〜〜終わり〜〜

 

 

 

この話を思い出すと、イノベーションとコモディティの関係が違って見えてくるのだ。

 

コモディティの領域には劣悪な粗悪品も混じってるが、それは本来のコモディティではない、紛れ込んだ低偏差値であって、本来は淘汰排除されるべき存在なのだ。

 

現代の特徴として、イノベーションからコモディティへ至るプロセス時間が極端に短くなっているということがあり、陳腐化が速いと表現される。

 

 

最近、日本の劣化と取り沙汰されることが多いが、これって日本人のほとんどが偏差値の中央値の付近に固まっていてバラツキの幅が極端に少ないことを意味してるように感じられる。

 

収入や所得を評価軸として、その格差の拡大と偏差値のばらつきを同一視する傾向が強いが、そこに振り回されてしまうと、本来は淘汰される側ではないはずなのにモチベーションを喪失し淘汰されるようになるかもしれない。

 

格差や偏差値が基準として定着すると、相対性ばかりが気になるようになる。

 

他人と自分を比べて一喜一憂するようになるし、比べる相手は往々にして身近な誰かだったりするので、勝ってると思ったら勝手に優越感を感じ、負けてると思ったら勝手に敗北感を感じてしまうようになる。

 

これは垂直思考に囚われてるからだ。

 

こんな時こそ水平思考の出番だ。

 

他人と比べるのではなく、昨日の自分と今日の自分の比較であり、今日の自分と明日の自分の比較が大事になる。

 

そして、もっと大事なことは、比較した結果に一喜一憂する必要はないということだ。

 

比較する意味は、変化を確認することにのみあるのだ。

 

水平思考で世間を見渡すと、大して興味もないことにエネルギーを注いでいたり、すごく興味や関心を持っているのに全くエネルギーを注いでいないことがあることに気付くだろう。

 

 

日本ではどうだか分からないが、IOCのゴリ押しで始まったように見える東京オリンピックは、IOCがゴリ押しできたのはNBCが強気だったからだが、そんなNBCの思惑に反して全米でのオリンピック関連の視聴率は過去最低だと伝わってくる。

 

 

『オリンピック=高偏差値のスポーツエリートの祭典』は、スポーツにおけるイノベーションとして始まったような気がするが、派手な演出が加えられてもコモディティ感が否めなくなっている。

 

国の威信をかけてメダルの数を競い合うことが急速に色褪せてるように感じられるのはコロナのせいだけではなさそうな気がする。

 

 

そんなつもりはなくても水平思考の時代に移っているようだ。