Facebookが社運をかけてメタバースに注力するために社名をメタ(Meta)に改名したのが今年の10月28日。
それ以来、disられながらもVR界隈が賑やかで、私のようなゲームを全くしない者でも情報的に遅れは取りたくないとアンテナだけは張っている。
そんな自分を客観視しながら思った話。
ふと思ったのが、私の感情はマズローの欲求5段階でいうと何に当たるのだろうかということだった。
https://motivation-up.com/motivation/maslow.html
もし適切にアンテナを張ることができたなら、ブームのおこぼれに与って儲けられるとでも思ってのことならばどれに当たるのだろうか?
儲けられればという気持ちはゼロとは言わないが大きいわけではなく、それよりも世の中がもし動くならば、どういう理由で何を求めて動くのか、はたまた動かないのか、そこは理解できたいという思いが大きいように感じてる。
世の中の動きを理解できたいという思いならば第三段階の社会的欲求のようにも感じる。
世の中で起きてる社会的な現象を理解できないということを、恐れる気持ちがあるのかもしれない。
一方で、ではVRやメタバースの世界に夢中になるべくして嵌る人々にとっては欲求五段階のどこに当てはまるのだろうか。
ゲームに夢中な人をゲームをしない人間が見ると、自己管理ができてない人に見えがちで、そうなると生理的な欲求に振り回されてる人にしか思えなくなる。
VRやメタバースがゲームの延長線上にあるとすると、嵌るべくして嵌る人の欲求レベルは生理的だと思いがちだが、そこに課題やテーマがしっかりあるのならば、むしろ強いのは自己実現欲求の方が近いのかもしれないのだ。
このように考え始めるとマズローの欲求五段階の説自体に懐疑的になるし、最近はそういう説も増えている。
しかしそれよりも、時代が変わったことで、マズローが提唱した頃には段階的に変化すると考えられた欲求レベルは、現代では段階的に存在するものではなくなり、互いに隣接しあうようになったのかもしれない。
自己実現を達成できたと思われてる人が、本当はその下位に位置してとてもそんなことで悩んでるとは思われてないようなことで悩みを抱えていたり、周りからは生理的な欲求も満たせてないようにしか見えない人が自己実現と立ち向かっていたりということはもはや珍しいことでもないし、順番なんて関係ないのかもしれない。